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足久保川下流のエノキ林
 
            この木は上の枝が切られたため箒の様になっている
 
                              もし1本ならば最大だ
 
エノキ林                                横は瀟洒な美和野団地
静岡市葵区足久保口組
足久保川下流

エノキ林
目通り 3.0〜4.0M(最大)
樹高 8.0〜15.0M(最大)

この項の7本に2000年頃足久保奥組の舟
沢橋の所のエノキ林を紹介して以来の訪問
である。
第2東名下の橋を抜けて足久保に通じる道
ができたので自宅からは30分くらいでここ
に来てしまう。
瀟洒な住宅団地もできて昔来た頃の面影
はない。第2東名が開通すれば交通の便
は一段とよくなるだろう。
今日は野鳥の観察を兼ねてやって来た。
団地横の原田川は湧き水があるのか清流
だ。散歩の人に聞くと時々カワセミもいると
いう。しかし今日はいなかった。
一周して足久保川の土手を引き返す。す
ると大きなエノキの木が林をなしていた。
自生であろうか(それとも一列に並んでい
るので植栽の可能性も)何十本かある。
写真はその内の大きなものである。1つ
残念なのはエノキの下が竹の藪になっ
ていることだ。サクラならこんな風にはな
らないだろうが・・・。

2012,2,24撮影




エノキを追加

このエノキは同じ林の川の淵に近い1本で2幹に分かれているが
根回りは5.0M近くあり静岡市でも最大級の1本である
2012,3,6撮影
エノキの藪が刈られました
 
上の写真のようにエノキの木の周りは竹藪でしたがすっかり綺麗に刈られていました
2012,11,28撮影

俵沢のイチョウ、俵峰のスギほか
 
イチョウ                            シロダモ?斜面がきつく近寄れない
墓地(個人所有)を守る様に立っている                                           ・
銘に「慶長」があり、古い時代から人が住んでいたことが分かる                                   ・
 
スギ
 
スギ(最大) この後ろのスギは撮らず                    神社(普請中)の全景 大きなスギが4本

 
俵峰はかなり広い茶畑で背後の竜爪山は霧の中                    俵沢つずら折り茶園
                                                   静岡県棚田等十選認定の碑(平成11年、静岡県知事)
静岡市葵区俵沢及び俵峰

イチョウ
目通り 3.0M
樹高 15.0M
先を摘めてある。苔がビッシリ付いて
いて、太さの割には古い木かもしれ
ない

シロダモ?
目通り 2.7M
樹高 25.0M
近づけずしかも苔が密集、樹種の
同定は難しい

スギ 4本
目通り 3.3M〜4.0M(最大)
樹高 30.0M(最大)
昆虫少年だった小学生、中学生の頃
何度か来た俵沢・俵峰にやって来た。
当時は自宅から俵沢まで自転車で来
てそこから俵峰まで歩いた。車道なん
てなかった時代だ。今日気が付いた
が「俵沢つずら折り茶園」の真ん中に
道が付いていて、ここは直射日光が
当たるので暑かったのを覚えている。
その先は渓流沿いの道で少し涼しく
なるが楽な様で1時間ほど掛かり結
構辛かった。
俵峰に来ると広い茶園でこんなに広
かったのかという感じだが、その先に
こんもりしたスギの森があり多分神社
があるのだろうと思った。車道ができて
からも記憶では2回来ているが、多分
「巨樹の旅」を始める今から15年より
前だったのかもしれない。
神社に行く道を捜してウロウロしてい
ると建物の前におばあさんがいたの
で尋ねる。ここの生まれだそうで80才
を越えたそうだがしっかりしている。お
茶も木材も駄目になった現在山間は

過疎を逃れず、息子さんやお孫さん
は土木の仕事をしているという。確か
昔来た時あったバンガローに話が及
んだ時(聞くと市営だったらしい)、随
分賑やかだったそうだ。戦後のレジャ
ー施設が少なかった頃、村も一番輝
いていた頃かもしれない。それと昨
年暮れ近くの山で50才くらいの男性
が遭難し未だ持って行方知らずだそ
うだ。当時はヘリコプターも飛んだり、
今でも家族が捜索に来るという。一歩
道を踏み外してしまうと迷いかねない
昨今の山道だ。(道標も少ない)
神社に来てみると生憎普請中であっ
たが、忘れ去られた神社が多くなる
中で今でも村衆に守られ幸せと言う
より他はない。スギもなかなかのもの
で樹齢は250年から300年は経って
いるかもしれない。

2012,3、4撮影

アクセス
俵峰へは俵沢より車で30分程

平野黒部沢のカツラ
静岡市葵区平野
黒部沢

カツラ
目通り 5.0M
樹高 10.0M

今日もヤマセミ狙いを兼ねてやって来た。
ヤマセミはどこにいるのだろうか?どこで
聞いても最近は見ないという。最近の情
報では昨年11月興津川の支流で見た
というのが一番新しい。と言うわけで自
分で捜すよりは他はない。
平野林道を入り最初の大きな橋の所に
車を止めて右の沢に入る。初めてだが
道は意外やしっかりしている。しかし昨年
の台風の影響で沢の直ぐ側に付いた登
山道も洪水で洗われた様だ。
150M程行くとこのカツラが沢の端に立
っていた。カツラとしては小さい方だが
木としてはまずまずの大きさだ。
道は更に上に続いていたのでもう少し
歩いてみた。沢の岩に止まるカワガラス
を発見。10分くらいの所にワサビ田があ
りここで引き返す。沢の対岸からはミソ
サザイの鳴き声が聞こえてきた。道標も
何もないので分からないがこの道は地
図にある天神滝に行くのかもしれない。

2012,3,12撮影


同じカツラの写真を追加

このカツラも含めて周りの木々もすっかり葉が茂り
薄暗い森に変わっていた。訪れる人もなくまるで原始の世界だ。
2012,5,16撮影

足久保川上流釜石峠下のオオモミジ他 
 
オオモミジとその根元の大きなウロ
 
その葉です                  直ぐ上のスギ 目通り2.7M 樹高30.0M

小公園にある案内図 山腹コースの表記がないのは疑問だ
 
聖一国師(栄西禅師)が種をここに植えたのが1244年という                                登山口の看板
 
200M上の茶畑 ここに分かりずらいが山腹コースの道標が                            やや危険な所はロープが
 
梯子の下がその石 所々にティーロードの道標                        この上で沢を渡りヒノキ林の急坂へ
  
分岐の道標 釜石峠へはここから10分                    山腹コースの巻き道 2M程のスズタケが道に迫る所も
 
ガレ場です                                                          ・
静岡市葵区足久保奥組
釜石峠下

オオモミジ
目通り 6.0M
樹高 20.0M


ミソサザイとカワガラスの観察のため
足久保川にはここ何回か来ている。
今日も両者を以前観察の場所で堪
能。その後最近追っている「ヤマセ
ミ」が上流にいないかとティーロード
を通って釜石峠まで行くことにした。
釜石峠には数年前反対側の栃沢
から登ったことがある。
鉄の大きな扉(開放)の所に車を置
き林道を登る。200M程行くと茶畑
と作業小屋が見えた。その先が終
点であった。そこに沢コースの道標
があったが、コピーにこの道は危険
で市の推奨ハイキングコースでは
ないので山腹コースを利用下さい
との貼り紙があったが、道を見ると
歩かれている様なのでこの道を登
ることにした。

道は沢の直ぐ脇に付いていて、昨
年9月の台風で荒れたのかしばら
くは通れなくなった様だが、コピー
と裏腹に現在は復旧されやや危
険な箇所にはロープや新しい丸
太橋が架けられ注意すればそれ
ほど危険というわけではなかった。
所々にティーロードの昔の名残の
道標も付けられていた。
かなり登った所の斜面に大木が見
えた。落葉樹でしかし肌がタブノ
キの様でもある。斜面を下りて根元
に行くとそこには大きなウロがあっ
て広い方の幅は2Mほどあった。
落ち葉を拾うとどうもオオモミジのよ
うだ。写真を撮り終わった時こんに
ちはという声がしたので振り向くと
登山者が下りてきた。今日は登山
者はないのではと思っていたので
いささかビックリした。何をしている
のですか?と聞かれたので樹木を
見ていると言ったら何の木ですか
?と聞かれオオモミジのようですと
答える。樹齢も聞かれたので200
〜300年くらいと思われると答え
た。この人は私は見落としたのだ
が茶畑の所からの山腹コースを一
周してきたという。
ここで別れ更に上に向かう。沢を
越えヒノキの植林の急坂を登ると
釜石峠と山腹コースの分岐の道
標が建っていた。釜石峠は以前
登ったので山腹コースに入る。こ
の道は巻き道で、4回ほど枯沢や
水の少ない沢を横切り、ガレ場を
過ぎるとヒノキの植林を下る。会っ
た人がいっていたが最近は余り歩
かれていない様だ。下った所が茶
畑の所だった。
古道のティーロードは確かに沢コ
ースであったのだろう。しかし歩い
てみて沢の斜面に付いた急な道
は時として大雨などにより流され
たり危険な状況もあったのではな
いかと思われる。これは私見であ
るがそんな状況でいつしか安全な
山腹コースが開拓され、沢コース
が不通になった時利用されたの
ではないかと思われるのだが・・。

2012,3,20撮影

アクセス
沢コースも今は安全に歩けます。
峠まではどちらのコースを通って
も1時間前後と思われる。

真富士山登山口先のツガ
 
静岡市葵区平野
平野林道
真富士山登山口先1キロ

ツガ
目通り 1.65M
樹高 12.0M

この林道もこの辺まで来たのは2年振り
位である。
この山もご多分に漏れずスギ・ヒノキの
植林帯である。その植林の中の僅かな
自然林の中にこのツガは立っていた。
決して大きくはないが旅の思い出に載
せることにした。 

2012,5,16撮影

アクセス
真富士山登山口より林道を歩いて30
分である

末高城跡のエノキ
すえたか
 
墓地全景                                     エノキ(後ろに宝篋印塔)
  
登り口横の更地(このガードをくぐり抜ける)                     広い登山道                   AUのアンテナ(後ろに茶畑への道)

 
茶畑の真ん中より上に墓地                        墓地より真富士山を俯瞰。城は下方にあったという
静岡市葵区平野字トイグチ
末高城跡

エノキ
目通り 2.7M
樹高 10.0M

皆さんは「安倍七騎」(あべしちき)という
言葉をご存じですか?私も全く知りません
でした。
一色で「坂本姫の碑」を見ている時杉本さ
んから浅羽克典著「安倍七騎」という本が
でていると教えられました(2006刊、静岡
新聞社販売)。
今川が武田に滅び静岡に侵攻した後、京
を目指す武田と織田・徳川連合軍が浜松
方面で激戦を交えていました。その頃(15
70前後)武田の家臣の岡部の岡部正綱
の家来として活躍したのが安倍中流(平
野、上落合、落合村、腰越村、俵峰村、
足窪村辺り)の七人の侍でした。彼等の
経歴を見ると元々しっかりした侍ではなく、
地侍、浪人や山賊の様な人達であったよ
うです。
ここで取り上げる末高氏も元は山賊の頭
領とか名を半左衛門といい、石見守正勝
と称しました。今は地名はありませんがこ
こに村岡村を興しました。


私が興味を持ったのは「安倍七騎」の冒
頭の写真集に「末高氏一族の墓」が載っ
ていてそれが明らかに「宝篋印塔」だっ
たからです。もう見ないわけには行きま
せん。
知り合いの近くの見月茶屋のご主人に場
所をききました。場所はR29より200Mほ
ど山に入った茶畑の中にあるということで
す。彼は中学の時学校で研究発表をした
そうです。
更地の脇の登山口が分かり広い道を登り
きるとAUのアンテナがあり、その後ろから
茶畑に抜ける道が付いていました。広い
茶畑で「どこに墓が」と思いましたが、真ん
中より上に木が茂ったところがありました。
その墓地の中央にこのエノキは立ってい
ました。100年か150年前目印に植えた
ものと思われます。なかなか立派なエノキ
です。墓も立派な宝篋印塔で左のものに
元禄七年の銘が読み見とれました(HP
静岡県の宝篋印塔」をご覧下さい)。聞
くところによると今でも地元の有力者が供
養や手入れをしているそうです。
下の茶畑に下りると手入れをしている老
人がいて「末高氏の末裔」は地元にはお
らず東京に移られたと話していました。

2012,6,13撮影
その後の「安倍七騎」(余話)あべしちき
私はこの本を最初飛ばし読み(つまみ食い)で読んだので
七騎のその後が分かりませんでした。筆者はなかなか頭の
よい人で、「史実風」に迫ると思うと突然当事者が「このよう
に考えたのだろう、このようにしゃべったのだろう」と「話し風
」(物語風)に変わり、それが「しぞーか弁」そのものなので
筋が掴みにくい。
そして最後の方に七騎のその後が書かれていました。
その前に武田勝頼が長篠の戦いで織田・徳川連合軍に敗
れ七騎は逃げる。掛川の高天神城が堕ちる。彼等は吉田
町の小山城に籠城2カ月、その後安倍谷に帰っていた。
勝頼が天目山に滅び駿河は徳川の版図となった。
武田の家臣だった彼等は亡ぶはずだったがそうではない。
これは多分主の岡部の岡部正綱がその武勇に優れ家康
の家臣に迎えられたことによりそれぞれが家康の家臣に
なったのだろう。その後秀吉との戦い(尾張長久手の戦い)、
小田原の北条攻め、関ヶ原の戦いと彼等は名だたる大戦
に勝ち残った。そして戦は終わった。
まず村岡村の「末高半左衛門」であるが、彼は徳川宗家
に仕えた。その子孫は正保年中に旗本の一(いつ)につ
らねた。
柿島村の朝倉在重は時を見るに敏だった。嫡男藤十郎
筑後守宣正は徳川忠長郷(家光の弟)の家老となり掛
川城主に栄達したが忠長が謀反の疑いで生害すると
領地没収、蟄居閉門となる。次男左衛門石見守は江戸
北町奉行を勤めた。三男六兵衛景年は紀州家徳川頼
宣の御旗奉行衆使番衆となった。
足窪村の「石貝重郎左衛門」は徳川宗家に仕えた。その
子孫五左衛門は好人物だったという。江戸北町奉行に
ついた石谷(いしがい)左近将監貞清と言う人物が同人
かその家系のものかもしれない。
「大石五郎右衛門」彼は「義賊」である。地元柿島村の
庄屋義兄朝倉在重(越前朝倉家の流れをくむもので、そ
の父は家督争いに負け船で駿河に流れ着いた。庄屋の
地位を金で買ったと言われる)の圧政に抗し立ち上がり最
後は在重の家来と戦い毒矢を受けて死す。今でも村人に
慕われ墓は上落合の畑に建つ。
俵峰村の「杉山小兵衛」と「望月四郎右衛門」は武士をや
め百姓になったという。今でもその子孫が俵峰で農業を継
いでいる。
腰越村の「長島甚太右衛門」も土地に残ったが、1606年
にわかに家運傾き元和年間に一家は離散滅亡した。
落合村の狩野弥次郎とその嫡子次郎兵衛は村に残り里
長を勤めた。この一族で士籍に身を置いたものは狩野九
郎兵衛という人物で紀州徳川家に仕えた。
(2012,6,24記)
(余話の余話)「武川十二騎」むかわじゅうにき
「山梨県の歴史散歩」を読んでいたら関連で面白いこと
(私にとって)載っていましたので紹介します。
元「武川村」今の北杜市武川町辺りに武田信玄の時代
「武川十二騎」と呼ばれる武士団がいたようです。武川
村といえば天然記念物の「神代桜」がある所です。武田
が織田・徳川連合軍に敗れ甲斐は徳川が支配すること
になった。家康は甲斐に入国するに当たり紛争をなくす
ためこの遺臣「武川十二騎」も含めて武田の武士団を
懐柔した様である。家康は家臣の平岩親吉に支配を任
せた。秀吉が家康の力を恐れ関ハ州に移封させ甥の
羽柴秀勝に当たらせた。秀勝は家康を意識した要とし
ての築城が開始された。その後近江佐和山の加藤光
泰が跡を継いだ。その後は浅野長政親子に入国させ
た。長政は城下町を形成する。秀吉が「朝鮮出兵」に
失敗し失意の内に亡くなる。関ヶ原の戦いを経て家康
は長政親子を紀州和歌山に移封させ、再び平岩親吉
に当たらせた後9男の義直に当たらせ義直を尾張に
転封後城番を置き主に「武川十二騎」が勤めた。その
後秀長、家光の3男綱重が拝領し甲斐徳川家が成立
する。甲州は御三家に加えて甲府・館林とともに五郷
といわれ徳川の中でも家格が高かった。その後綱重の
嫡子綱豊が跡を継いだ。五代将軍綱吉は子がなく綱
豊を養子に迎え六代家宣が将軍となる。この時力とな
ったのが武川衆の一員柳沢吉保である。父安忠は武
田滅亡後徳川の家臣として武蔵国にいたが綱吉の家
臣に登用されその子吉保が綱吉に寵愛される。吉保
は側用人から筆頭老中になり幕閣の最高位に上り詰
めた。その後15万石の甲府藩主に迎えられる。柳沢
家は故郷を離れて百十余年振りに故郷に返り咲く。
彼は城を大修築する。今に伝えられる甲府城ができ
あがった。綱吉死後吉保は隠居しその子吉里が継ぐ。
この頃甲府城下は空前の賑わいを呈したと言われて
いる。しかし1724年(享保9年)幕府財政の建て直し
を柱とした八代吉宗によって吉里は突然奈良郡山に
移封される。吉宗は江戸から近い甲斐を直轄領にし
たかった。甲斐国は幕府領となりその後輪番制がと
られた。(以上要約。詳しくは「歴史散歩」p137〜
141、山川出版社刊参照)
何故長々と書いたかというと「安倍七騎」という独特な
言葉が同時代「武川十二騎」」という言葉が他にもあ
ったということです。全国にはもっとあるかもしれませ
んが・・・。
                  (2012,11,16記)


西の送電線巡視路の合着樹 

則沢口から久し振りに文珠岳に登った帰り同じ道を下りたくなかったので分岐から
南尾根を下り東海自然歩道のベンチのあるところから中電送電線巡視路に入る。
ここには道標が付いている。既に数回歩いたことのある道ではあるがいい道であ
るが歩いている人は少ない様だ。2・3ヶ所谷側に道がザレているところはあるが
それほど危険というわけではない。この木は丁度中間点の登山道から7〜8m下
の斜面に生えていた。少し近づいたところから写真を撮り樹種の判定を行ったが
右はスギ、左はケヤキで、奥はカシと思われるが樹種は分からなかった。幹径
はそれぞれ50p未満で太いわけではない。合着と言うより寄せ植えに近いが3
種がこう近くに生えるのは珍しく思われるので載せることにした。
(2012,11,10撮影)
※ここでは則沢口から西の巡視路を仮に「西の送電線巡視路」とし、北東のものを
「東の送電線巡視路」と呼ばせてもらうことにする。
地図は(2)をご覧下さい。

山行記録・東の送電線巡視路 
 
則沢口終点の登山口・道標はない                最初は小さな沢の横に道は付いている
 
中電送電線巡視路でプラスチックの階段               全山スギ・ヒノキの植林帯。市有林の可能性大
 
尾根に鉄塔が建っていた                          平山・清水方面

ススキ原で眺望は良い。左・文珠、右・薬師
 
道白山への尾根道                      15分位行くとこの標識が
 
更に100m程行くと道は笹藪に消えていた。ここで引き返す          危険標識から下にリボンが付いていたが道は不鮮明で下りず
道白山一つ手前のピークと思われる                                         ・
武田信玄が駿河を支配していた頃道白禅師
という偉いお坊さんが林道終点500m程の道
白平で庵を組み修行していた。その東の尾根
が道白山という。昔はここから道があったのか
もしれないが今はない。
一方林道則沢線の終点には道標はないが北
東に向かって登山道が付いている。この道は
一体どこに続いているのだろうか?多分道白
山に行けるのではないだろうかと思い歩き始
める。
道は沢沿いの脇の暗い植林帯に付いている。
暗いが間伐もされ手入れもされているので気
持ち悪くはないし中電の送電線巡視路であ
ろうか緩やかな道で歩きやすい。
25分位で尾根に付いてしまった。そこに送
電線の鉄塔が建っていた。ススキ原で景色
も良い。着いた時はガスがかかっていたが
帰りには消えて竜爪山が手に取る様に見え
た。
道白山まで行こうと南の尾根を詰めたが最
後は藪に道は消え諦めて引き返す。
竜爪山の本峰に行くには尾根が中途半端
な位置にあるので来る人も少ない様だが
ちょっと景色を楽しみたい人は一度登って
みるのも面白いだろう。

2012,11,13撮影

アクセス
送電線まで25分位
危険なところは全くないが中電巡視路につ
き自己責任で。地図は(2)参照

浅間原中腹のコナラ 
 
コナラ1(下)                       コナラ2(上)
 
鉄製の立派な道標です                          沢手前の倒木
 
最初の沢                                2番目の沢

暗い植林帯の斜面に道はしっかり付いています                                かなり上にモノラックのレールが
 
こんな看板もありました                        送電線が目の前に見えてきました
 
その送電線です                     両側切れ込んだヤセ尾根に古い丸太橋が付いていた
                             情けないことに足がすくんでここで引き返す。虎ロープも付いているがそれでも渡る気にはならなかった

下コースもあるらしい
静岡市葵区渡(ど)
浅間原中腹

コナラ1
目通り 3.0M 2幹の合計
樹高 20.0M

コナラ2
目通り 2.5M 2幹の合計
樹高 20.0M

勉強不足で『せんげんはら』と読むのか
『あさまはら』と読むのか未だもって分か
らない。
野鳥観察で林道沢山石津線も今日で
3回目だ。この林道は最後は行き止ま
りだが一番上の所に前の市長の完成
記念の石碑があり、平成8年に完成し
たらしい。
2回目の時丁度中間点辺りに『浅間原
』の道標があるのに気が付いた。その時
近くの路端に車が止まっていて登山者
のものではないかと推測した。
そんなことで今日は頂上まで行けなく
ても下見のつもりで途中まで行ってみ
ようとやって来た。
その前に『浅間原』という山は非常に
マイナーな山ではないかと推測する。
相当山の好きな人でも登った人は少な
いだろう。1974年に登った『欽ちゃん
の山登り』というHPを見ていたら稜線
の仏谷山、青笹山、浅間原辺りは深い
笹で相当のアルバイトであった様だ。
しかし今は道は整備されているし山梨
百名山の青笹山は人気がある山だ。
それと浅間原には当時もう鉄塔もあった
様だ。鉄塔があれば巡視路があるはず
だ。この道も近くに送電線が通っている
ので巡視路の可能性があるがその『表
示』はない。
登山口道標横の路端に車を止める。

直ぐ植林帯に入り暗い登山道を進む。
途中倒木があったり沢で道が寸断され
たところはあるが大したことはない。そ
の上も歩く人が少ない割にはしっかり
している。かなり登ると送電線が見えて
周りの景色も見える。この調子ならもっ
と上まで行けるのではないかと思った
矢先両側に切れ込んだヤセ尾根に古
びた丸太橋、落ちれば多分死んでしま
うだろう・・・。そんなことを考えると足が
すくんでしまい、無理をすることはない
と・・早々と退散する。マイナーな山で
しかも巡視路となれば静岡市のハイキ
ングの推奨コースでは勿論ないし仮に
崩落しても市には何の責任もない。『全
て自己責任』だ。しかしいつ付けたか
は分からないが途中には5枚ほどの静
岡市教育委員会の黄色の道標があり
この道標を信じて登った人はえらいこと
になってしまう。勇気ある人は渡れるだ
ろうが果たして何人の人が渡れるだろう
か?上から知らずに下りてきてここにさ
しかかった時無理をして渡ったり、雨が
突然降ってきた時は渡れるだろうか?ま
た巡視路と考えると彼等は山の専門家
に近いがやはり命がけということになって
しまう。この道を将来どうすべきかも含め
て真剣に考えても良さそうだ。私はせめ
て建築現場などで使われる『足場』のよ
うな鉄の橋にしてはどうだろうかと考える
のだが・・・。
写真のコナラは送電線の下で見付けま
した。

2012,11,29撮影

アクセス
丸太橋の所までは危険なところはありま
せん。丸太橋は現状では相当経験がな
ければ無理ではないかと判断します
 
山を下渡まで下りてくると広場がありここで食事をします。
よく見ると大河内北小学校跡地でした。
樹齢100年程度の銀杏(雄株)が真黄色に色づいて見事でした。
その横には『心の碑』があり昭和43年在校生82名一同と刻まれています。
当時はこの先の山の上の有東木からも生徒が通学していたのかもしれません。
その横には錆びて棒が曲がった鉄棒がありました。
それらを見ているとふと往時の生徒の歓声が聞こえてくる様で
ジーンとして感傷的になってしまいました。

足久保小北方のアラカシ
 
茶畑から見る足久保小学校              その最上部から登山道が付いている(これを目印に)
静岡市葵区足久保奥組
足久保小北方

アラカシ
目通り 4.0M 4本の幹の合計
樹高 20.0M

前日足久保川を遡った時足久保小北方
の山がヤマザクラでかなり白く綺麗に見
えたので農作業の男性にルートをお聞き
したら送電線の所までは道があると教えて
くれた。
そこで今日は改めて訪れ登ることにした。
小さな神社の脇に車を止め細い沢沿いに
付いた未舗装の車道を歩き始める。細い
道ではあるが軽の四駆なら上れるかも知
れない。20分ほど歩くと茶畑に出た。こ
の最上部まで車道は付いている。ここから
は登山道で中電の送電線巡視路なのか
中電の標識が立っていた。その先は自
然林で照葉樹林といわれる林でアラカシ
が多いが所々に黒い肌のヤマザクラが立
っている。どれも樹高が高いので満開の
ヤマザクラは林の中からは見えない。
来る人が少ない割には道はしっかりして
おり山頂まで登れそうであったが標高約
300M辺りで引き返す。このアラカシは
登山道を登り始めて直ぐの所に立ってい
た。

2013,3,30撮影



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