曽我兄弟と虎御前


曽我寺の兄弟の像

鎌倉時代の末期、仇討ち「曽我物語」として成立し、その後浄瑠璃や歌舞伎で親しまれてきた。
「静岡県の歴史散歩」から抜粋して事件の背景など紐解いてみよう。

平安時代末期、頼朝が伊豆へ配流となってそれを監視するのが、
平家の一門の伊東祐親で、頼朝は祐親が公務で京への留守中に娘八重姫と結ばれたが
帰郷後二人は引き離され、頼朝は政子と結婚する。
(※驚いたことにこの八重姫との間に千鶴丸−せんずるまる−という子までいました。早世のようです)

その伊東一族の内紛は祐親の祖父の時から始まる。長男祐家は早死にしたので
二男祐継が伊東を継ぎ、祐家の子祐親は河津を継いだ。
しかし成人した祐親は伊東の地を支配する正当性を訴え伊東領主となった。
一方祐継の長男工藤祐経はこれを恨み家臣に命じて祐親の子
河津三郎祐泰を暗殺する。この時十郎5才、五郎3才であった。
(※言ってみれば身内の家督争い、領地争いであった)

それから18年後、頼朝の寵臣となっていた祐経を富士の巻き狩りの夜、
1193年5月28日殺害した。十郎はその場で討たれ、五郎は頼朝の宿所を目指したが
捕らえられ護送中に首をはねられた。元々二人は頼朝の首を狙っていたとも考えられている。

この事件は単なる私的な仇討ちではなく、兄弟の背後にいたと考えられる北条時政ら、
幕府実力者の政治的意向が背景にあったとする説がある。
(※時政などの謀略説ともいえる)


河津三郎暗殺の三本カシの看板(伊東市)
カシに隠れて暗殺の機会をうかがった。
血塚はこの裏の薄暗い林の中にある。
(※東林寺の由緒によれば、ここで遠矢に
かかって死んだという。全てはここから始まった)。
2005撮影(古い写真で申し訳ありません)

2011,4、5更新



第T部 曽我寺周辺






この案内図は門を入ってすぐ右に設置されている。
●「姫宮神社」は鷹岡小近くの民家にあり、「化坂少女」(けわいさかのしょうじょ)といって、五郎の恋人を祀っている。
●「工藤祐経の墓」は実際は富士宮市上井出にあるが、この場合厚原の丘小近くの鈴木さんという
民家の「工藤神社」という私的な神社の供養塔を指すようだ。
(※この2点の情報は富士市教育委員会の史跡担当の女性から頂きました)
●この墓と腰掛の石((本照寺近くらしい)は距離はあっているようだが、図中の位置はかなり近すぎるので注意。
(※地図では近いように見えますが駐車場もあり車での移動をお勧めいたします)


そがでら
曽我寺

曾我兄弟の菩提寺。
今は無住の寺である。
山門の奥に本堂が見える。
中に二人の位牌と木像があるそうだ。

こちらは二人のお墓と供養塔です。
一番右は十郎、左は五郎のものです。
傷みが激しいです。
中2基は新しい供養塔です。

由緒書きです。

これは十郎の愛人といわれる虎御前が
薬師如来を生涯供養したというので、こ
こに770年後遺志を継ぎ安置した石碑。

天保14年の観音座像。

※これは私の全くの想像であるが
この像は虎御前の祈る姿を象った
ものではないだろうか?
(2011,4,6記)



たまわたり
玉渡神社
(霊渡神社とも書く)
愛人の虎御前がここの祠で一夜
曽我兄弟を偲んで涙を流したと
言われるところ。
その夜曽我寺の方から火の玉が
ふわりふわりと来て御前の所で消
えたという。

それにしても十郎と虎御前はどこで
どのように会ったのだろうか?知りたい
が資料が全くないので分からない・・。

御前は若い時はどこに住んでい
たか知らないが、その後は島田
に住んでいたようだ。
遊女あるいは白拍子という職業?
だったのであろうか。
「島田髷」(しまだまげ)の考案者と
いわれている。
また推測するに天寿を全うしたようだ。

「曽我物語」は読んでいませんが、虎
御前のことについて詳しく書かれてい
るのでしょうか?

この神社は厚原の人達が兄弟の
冥福を祈るその健気な姿に感じて、
死後ここに神社を建てたという。

これは島田市にある虎御前のものとい
われる宝篋印塔です(真ん中)。
宝篋印塔は支配階級のものであるが、
何故彼女の墓に使われたのかは謎だ。

※3/29島田市博物館文化財担当の
方にここ以外に虎御前の史跡があるか
尋ねてみました。ここ以外はないそうで、
そもそもこの虎御前の墓なるものが本人
のものかどうかも鎌倉時代の古い時代ゆ
え不明であるとの意外な答えでした。?
??・・・・。ということは説明文の「島田
髷」の考案者もウソ?ということになって
しまうのだが・・・?

虎御前の足取りは仇討ち後玉渡神社
の所に来て冥福を祈ったところまでは確
かだろう。しかしその後の足取りが島田へ
行ったのではないとすればどこへ??
知っている方がおられたら教えて欲しい
ものだ。(2011,4,6記)





曽我八幡宮

死後4年、頼朝の命により
建てられた

神社の由緒です。

本殿はまだ新しい。
右の大きな岩の上に
天を指している兄弟の像が
立っている




五郎の首洗い井戸
由緒です。

井戸のあったところに石碑が建って
います。
その後ろは凡夫川というのでしょうか?
余り綺麗ではありませんでした。
石碑の下は溶岩です。富士山の
溶岩がこの川で運ばれてきたのかも
しれません。
祠です。


以上2011,2,6撮影


第U部 白糸の滝周辺

実際に仇討ちが行われた白糸の滝周辺にも、曾我兄弟の史跡が何カ所かあります。
今日はそこを歩いてみました。

白糸の滝は観光地となっています。
下の方の下馬桜は頼朝が巻き狩りの際馬から降り馬を繋いだ場所といわれています。
木はヤマザクラで国指定特別天然記念物となっていて、傷みもきていますが
毎年4月上旬綺麗な花を咲かせます。
狩宿となっていますので頼朝はここに泊まったのでしょう。

曽我橋にある案内図です。
実際に近いよう加筆しました。

  
朝霧の芝川 川が切れたところが滝のようです              芝川の水は白く映えて美しい
         
芝川に掛かる曽我橋                          音止の滝も朝霧に霞む

狩宿の下馬桜(1992年撮影、古い写真で申し訳ありません)


曽我の隠れ岩

隠れ岩は溶岩でできていました。
由緒です




工藤祐経の墓

由緒です。

「曽我物語」は読んでいませんが、
この由緒を見てびっくりしたのは、
仇討ちの日が、雨の夜だったこと、
それも陣屋の中だったことです。
陣屋や陣所とはどんな建物だった
のでしょうか?新しく造ったのか、そ
れとも農家を借り上げたのでしょうか。
こんな難しい状況で仇討ちを成功さ
せたということは、相当間取りや寝る
位置などを下調べしなければできな
いでしょう。電気もない闇夜に寝込み
を襲ったのでしょうか?祐経も酒を飲
んだりして、相当油断していたに違
いありません。警護も甘かったですね。
「曽我物語」に詳しく書いてあるかもし
れませんが・・・。

墓石はありません。
祠の後ろの土が盛られた
場所がお墓なのでしょう。

墓は稲荷の中にあります。



曽我八幡宮

仇討ちから4年後、頼朝の命により
祭られました。富士の曽我寺の近くにも
同名の神社があり、2つあることになります。

家に帰って気が付いたのですが、この東に
「曾我兄弟の墓」が地図に書かれています。
下の由緒によれば十郎は仇討ちをこの近くで果たした後
討たれたようです。
曽我寺ではなくこちらが本当の墓なのでしょうか?
由緒です。
元ある神社に後から合祀されたようです。
地名は上原と書いて「わはら」と読みます。


以上2011,2,9撮影


曾我兄弟霊地

2/9に来た時曽我八幡宮から150M
東にある曾我兄弟の墓なるものを見落と
してしまった。
3/30に来てみたが3月中旬に起きた
富士宮を中心とする静岡県東部地震(
震度6)の影響で”墓”の上2段が倒れて
いた。
倒れた写真を載せたくなかったので、
今日改めて訪れた。地区の人達のご尽
力で元通りになっていた。
由緒によればこれは墓ではなく供養塔という
ことです。昭和41年地区の氏子の方達がこの
供養塔を建てたようです。
文面は1193年曾我兄弟は幕臣新田四郎忠常
の陣屋で見事工藤祐経の仇討ちを果たした後、
十郎は約10町逃げたがこの丘で討たれた。その
孝心を称えこの供養塔を建てたと書かれている。

  
入口にある道標です                  車は行き止まりで暗い杉林のこの階段の上です

以上2011,4,5撮影


第V部 伊東市周辺

伊東にも曾我兄弟というか、暗殺された兄弟の父河津三郎の血塚や伊東氏一族の菩提寺など関連史跡があります。
それにしても仇を討たれた工藤祐経はやはり人気がないですね。仇討ちの”美談”だけが取り上げられるのでしかたないですが・・・。




最 誓 寺 と 音 無 神 社
伊東家の墓所
最初は東林寺にあったが
江戸時代末東林寺は廃寺と
なったため祐親の墓を除き
ここに移された。

この寺は祐親が京都への留
守中に頼朝と八重姫の間に
できた千鶴丸の供養のため
八重姫が逢瀬を重ねた音無
の森の中に建てた。




その由緒です


頼朝と八重姫が逢瀬を重ねた音無神社です

その由緒です。




物見塚公園


祐親の馬上姿
丁度市役所の真西に物見塚公園がある。
今は小さな公園であるが、この近くに伊東
家の館があったという。

平家が壇ノ浦で敗れた後、平家一門の祐親
は頼朝の助命嘆願を断り、主従を貫き自害した。




私はうっかりしてこのすぐ西と思われる
祐親の墓(五輪塔)を見落としてしまった。



東 林 寺

十郎の供養塔

河津三郎の墓

五郎の供養塔




東林寺の由緒です
以上2011,2,24撮影




第W部 箱根町及び小田原市

「曽我物語と虎御前」も終盤に入りました。このテーマを追っていると知らないことばかりでしたが、
面白いことも色々ありました。曾我兄弟の墓が3ヶ所にあったり、虎御前の墓が2ヶ所にあったり・・・。




曽 我 神 社
私が初めて箱根神社に来た2003年は
この神社の裏手にある神奈川県指定天然
記念物のヒメシャラ純林を見るためであった。

その時本殿に上る途中に大きな杉並木が
あり、また「曽我神社」があることに気が付い
たが、当時は「曾我兄弟の仇討」には興味
はなく、こんな所に神社が・・・という感じで、
写真を撮ったことだけを覚えている。

今回は何故ここ箱根神社の中に「曽我神社」
があるのかという意味も含めて訪問した。

神社の由緒によると奈良時代初期(1200年前)
萬巻上人がこの地に里宮を建てた。それ以前は
関東の山岳信仰の一大霊場であったという。
平安時代初期箱根道が開通し人々が行き来する
ようになると旅の安全を神社で祈願するようになっ
た。
鎌倉時代頼朝は神社を信仰し、伊豆山神社と
併せて二所詣でを広めた。執権北条氏や家康
からも崇敬をうけた。
徳川時代には箱根宿や関所が設けられ、東西
交通の要所として栄え、庶民信仰の聖地に変貌
した。


この由緒によれば、父河津三郎暗殺後兄弟の行く末を案じた母満江(まんごう)御前は相模の国曽我城主※
曽我太郎祐信と再婚し兄弟も曽我姓を名乗る数奇な運命を体験し、兄一萬は元服して十郎祐成と改め曽我家
を継ぎ、弟筥王(はこおう)は箱根権現別当行実僧正に預けられて稚児となったが、孝心止みがたく杉を相手に
武術に励んだという。筥王17歳の時出家を嫌った王は山を下り元服して五郎時致と改めた。1193年5月決行の
直前二人は箱根権現を参拝、行実僧正より神刀微塵丸と薄緑丸を授けられ袂別した。それがこの図である。
(中略、後略)。
僧正はこの先R1沿いの精心ケ池の畔に曾我兄弟(と虎御前)の墓を建てたと書かれているのでこれも近々見に
行きたいと考えています。

※小田原市教育委員会に聞くと曽我城の場所はまだ定かではないが小田原市東部の下曽我の近く曽我谷津と
いうところの城前寺付近ではないかといわれているそうです。城前寺には曾我兄弟の木像等があるとのことです。
また少し東の丘に祐信のものといわれる宝篋印塔も立っているようです。近々訪問したいと考えています。
付近一帯は梅の産地で「曽我梅林」といわれ2月中旬から末に「梅まつり」が開かれるそうです。今年は寒いので
まだ間に合うかもしれません。



謡曲との関係

800年祭(平成五年)の碑

2011,2,24撮影


資料
下記資料は3/2小田原市教育委員会から頂いたもので、平成19年刊
「小田原市史全15巻」の第1巻「原始 古代 中世T」(参考資料/文献
/銘文)の抜粋です。(長いのでコピーをそのまま載せました)

これを読んでいてビックリしたのは、五郎元服の烏帽子親が北条時政であ
ったこと、時政は伊東祐親の婿であったこと、工藤祐経が京都勤めが長く
いかに頼朝の信頼を受けていたかということ、そのことにより兄弟の祐経に対
する一層の憎しみ更にそれを許す頼朝への不信、十郎と虎御前の出会いが
祐経の情報を得るため宿々に出入りする内大磯宿の虎といわれた御前とラブ
ロマンスの花を咲かせたこと、兄弟が仇討ち後頼朝の屋形近くにまで迫った
こと、事件後頼朝の弟範頼が失脚、殺害されたことからの時政の謀略説など
が書かれています。
特に私にとって大きな謎であった「十郎と虎御前の出会い」が分かったことは
大きな収穫でした。



範頼は頼朝の異母弟で義経の異母兄で、平治追討の大将軍として一の谷初め功績があった。
義朝を父に遠江国池田宿の遊女を母として蒲御厨(かばみくりや)で生まれたので蒲冠者(かばの
かじゃ)といわれた。墓は修善寺から300mの所にあるが、浜松市飯田小近くに別荘があった
ことから室町時代その跡地の龍泉寺に供養塔の五輪塔が建てられた。
2011,3,2記   ・


精進ケ池
左2基が俗称曾我兄弟の墓
右が俗称虎御前の墓。いずれも
五輪塔です。保存状態はすこぶる
いいです。この墓だけは道路から
見えます。

建立は右端の御前の墓の銘によ
れば1295年です。
仇討ちは1193年でしたからそれ
から100年以上経って建てられた
のでしょうか?

曽我神社の由緒にある行実僧正が
建てたという墓がこれなのでしょうが
時代があいません。

箱根町文化財課の方の話で「静岡県
の宝篋印塔」でも書いた「七湯のしおり
」の中で曾我兄弟の墓と書かれている
とのことです。正しくは「地獄信仰の霊
地」での供養塔ではないかということで
す。
それは銘に「地蔵講結縁衆」(地蔵講
を信仰する集団の意)と刻まれていて、
曾我兄弟の墓とは全く無関係のようで
す。
神奈川県箱根町

箱根神社から10分位の所で、精進ケ
池と芦ノ湯の間です。



2011,3,3撮影



城前寺

左が曾我兄弟の供養塔、
右が祐信と母満江御前の
供養塔。いずれも五輪塔
です。

本堂裏にあり、ここは曽我
城の大手門前の土塁跡だ
そうです。

1930年建立の新しい供養
塔です。
由緒です。
この中で注目すべきは
仇討ち当日、雷雨の夜で
兄弟は傘を燃やして松明
代わりにして本懐を遂げた
ようです。
今でも5月28日には「傘焼
き祭り」が行われています。
 
上野増上寺の末寺、浄土
宗のお寺です。
一角に幼稚園が併設されて
います。

右は兄弟の立像です。
小田原市曽我谷津

JR御殿場線下曽我駅から
比較的近いです。
曽我丘陵の麓で裏はミカン
畑や梅林が広がっています。


2011,3,3撮影



十郎と御前の逢い引きと別れの場所

頼朝から重用された工藤祐経は鎌倉にいることが多かったのだろう。
仇討ちをするため十郎は祐経の動きの情報を得るため宿場に出入りする。
そこで出会ったのが大磯の虎こと虎御前であった。情報を得る内多分二人は
”死をも覚悟した実らぬ愛”と知りつつ・・・、段々愛し合うようになったのだろう。
そこで思うのだが虎という女性は凄いなと。何故なら愛し合う相手が仇討ちをする
となれば逆に身をひくのではと。虎という女性はよっぽども”情”が深い人だったに違いない。
また二人の生い立にどこか共通点でもあったのではないだろうか?(これはあくまで私見です)
頼朝が白糸の滝付近で巻き狩りをし祐経が随行するという情報も虎からもたらされたものだろう。
曽我と大磯の間は直線距離で約10qある。二人は人目を避けるようにここ千代
台地(中村道=大山道)で逢瀬を重ねたのだろう。
ここで知ったのは最後の日、大磯に虎を送る際馬を使ったとの記述である。
連れ子とはいえ曽我城主の息子となった十郎は当然馬位は乗れたのだろう。
いや乗るのがうまかったのかもしれない。推測するに白糸の滝付近に仇討ちに
行く時も五郎共々馬を使った可能性が高いように思われる。
相生の松碑
今は碑だけです。


大正2年建立
尾崎一雄の父尾崎孤山人による碑

明治まで松が残っていたという。
ここは大山道(丹沢の大山への参拝道)と鎌倉街道の交差する場所で、古代より阪東や奥羽に行く人が必ず通ったという。
芭蕉や蕪村も句を詠んでいる。
忍石
二人の最後の別れの場所という。

以前は姥石と姫石が二石で一対であったが
1つは城前寺に移されたという。
六本松から忍石への道
細い道で軽しか通れない。右斜面は梅林。

2011,3,3撮影


母満江御前との別れ
法蓮寺(日蓮宗)の墓地にあります。
自然石の粗末な墓です。

夫人は30才位で再婚し、1199年奇しくも兄弟の七回忌に
50才位で亡くなったそうです。

今でも家臣で伊豆から随行してきた武藤家、安池家の子孫が
供養を続けている。

由緒です
現別所公民館

当時はここに溜池と夫人の大屋敷があったという。その大屋敷は
曽我氏の下屋敷らしい。

最後の別れに訪れた二人に、母の意向を無視し出家しなかった
五郎の勘当を許そうとはしなかった。
兄十郎は懇願しとうとう勘当は許され、小袖を与えられる。
謡曲の「感動的な部分」である。(謡曲「小袖曽我」)

三度の結婚をして5人の子を産んだ夫人は健気な母であったのだろう。

2011,3,3撮影
ほぼ完です