曽我兄弟と虎御前 |
第T部 曽我寺周辺 |
曾我兄弟の菩提寺。 今は無住の寺である。 山門の奥に本堂が見える。 中に二人の位牌と木像があるそうだ。 |
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こちらは二人のお墓と供養塔です。 一番右は十郎、左は五郎のものです。 傷みが激しいです。 中2基は新しい供養塔です。 |
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由緒書きです。 | ||
これは十郎の愛人といわれる虎御前が 薬師如来を生涯供養したというので、こ こに770年後遺志を継ぎ安置した石碑。 |
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天保14年の観音座像。 ※これは私の全くの想像であるが この像は虎御前の祈る姿を象った ものではないだろうか? (2011,4,6記) |
愛人の虎御前がここの祠で一夜 曽我兄弟を偲んで涙を流したと 言われるところ。 その夜曽我寺の方から火の玉が ふわりふわりと来て御前の所で消 えたという。 それにしても十郎と虎御前はどこで どのように会ったのだろうか?知りたい が資料が全くないので分からない・・。 | ||
御前は若い時はどこに住んでい たか知らないが、その後は島田 に住んでいたようだ。 遊女あるいは白拍子という職業? だったのであろうか。 「島田髷」(しまだまげ)の考案者と いわれている。 また推測するに天寿を全うしたようだ。 「曽我物語」は読んでいませんが、虎 御前のことについて詳しく書かれてい るのでしょうか? この神社は厚原の人達が兄弟の 冥福を祈るその健気な姿に感じて、 死後ここに神社を建てたという。 | ||
これは島田市にある虎御前のものとい われる宝篋印塔です(真ん中)。 宝篋印塔は支配階級のものであるが、 何故彼女の墓に使われたのかは謎だ。 ※3/29島田市博物館文化財担当の 方にここ以外に虎御前の史跡があるか 尋ねてみました。ここ以外はないそうで、 そもそもこの虎御前の墓なるものが本人 のものかどうかも鎌倉時代の古い時代ゆ え不明であるとの意外な答えでした。? ??・・・・。ということは説明文の「島田 髷」の考案者もウソ?ということになって しまうのだが・・・? 虎御前の足取りは仇討ち後玉渡神社 の所に来て冥福を祈ったところまでは確 かだろう。しかしその後の足取りが島田へ 行ったのではないとすればどこへ?? 知っている方がおられたら教えて欲しい ものだ。(2011,4,6記) |
死後4年、頼朝の命により 建てられた 。 |
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神社の由緒です。 | ||
本殿はまだ新しい。 右の大きな岩の上に 天を指している兄弟の像が 立っている 。 |
由緒です。 | ||
井戸のあったところに石碑が建って います。 その後ろは凡夫川というのでしょうか? 余り綺麗ではありませんでした。 石碑の下は溶岩です。富士山の 溶岩がこの川で運ばれてきたのかも しれません。 | ||
祠です。 |
第U部 白糸の滝周辺 |
隠れ岩は溶岩でできていました。 | ||
由緒です |
由緒です。 「曽我物語」は読んでいませんが、 この由緒を見てびっくりしたのは、 仇討ちの日が、雨の夜だったこと、 それも陣屋の中だったことです。 陣屋や陣所とはどんな建物だった のでしょうか?新しく造ったのか、そ れとも農家を借り上げたのでしょうか。 こんな難しい状況で仇討ちを成功さ せたということは、相当間取りや寝る 位置などを下調べしなければできな いでしょう。電気もない闇夜に寝込み を襲ったのでしょうか?祐経も酒を飲 んだりして、相当油断していたに違 いありません。警護も甘かったですね。 「曽我物語」に詳しく書いてあるかもし れませんが・・・。 |
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墓石はありません。 祠の後ろの土が盛られた 場所がお墓なのでしょう。 |
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墓は稲荷の中にあります。 |
仇討ちから4年後、頼朝の命により 祭られました。富士の曽我寺の近くにも 同名の神社があり、2つあることになります。 家に帰って気が付いたのですが、この東に 「曾我兄弟の墓」が地図に書かれています。 下の由緒によれば十郎は仇討ちをこの近くで果たした後 討たれたようです。 曽我寺ではなくこちらが本当の墓なのでしょうか? |
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由緒です。 元ある神社に後から合祀されたようです。 地名は上原と書いて「わはら」と読みます。 |
2/9に来た時曽我八幡宮から150M 東にある曾我兄弟の墓なるものを見落と してしまった。 3/30に来てみたが3月中旬に起きた 富士宮を中心とする静岡県東部地震( 震度6)の影響で”墓”の上2段が倒れて いた。 倒れた写真を載せたくなかったので、 今日改めて訪れた。地区の人達のご尽 力で元通りになっていた。 |
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由緒によればこれは墓ではなく供養塔という ことです。昭和41年地区の氏子の方達がこの 供養塔を建てたようです。 文面は1193年曾我兄弟は幕臣新田四郎忠常 の陣屋で見事工藤祐経の仇討ちを果たした後、 十郎は約10町逃げたがこの丘で討たれた。その 孝心を称えこの供養塔を建てたと書かれている。 | ||
入口にある道標です 車は行き止まりで暗い杉林のこの階段の上です |
第V部 伊東市周辺 |
伊東家の墓所 最初は東林寺にあったが 江戸時代末東林寺は廃寺と なったため祐親の墓を除き ここに移された。 この寺は祐親が京都への留 守中に頼朝と八重姫の間に できた千鶴丸の供養のため 八重姫が逢瀬を重ねた音無 の森の中に建てた。 | ||
その由緒です | ||
頼朝と八重姫が逢瀬を重ねた音無神社です | ||
その由緒です。 |
祐親の馬上姿 |
丁度市役所の真西に物見塚公園がある。 今は小さな公園であるが、この近くに伊東 家の館があったという。 平家が壇ノ浦で敗れた後、平家一門の祐親 は頼朝の助命嘆願を断り、主従を貫き自害した。 |
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私はうっかりしてこのすぐ西と思われる 祐親の墓(五輪塔)を見落としてしまった。 |
十郎の供養塔 |
河津三郎の墓 |
五郎の供養塔 |
東林寺の由緒です 以上2011,2,24撮影
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第W部 箱根町及び小田原市 |
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謡曲との関係 |
800年祭(平成五年)の碑 |
下記資料は3/2小田原市教育委員会から頂いたもので、平成19年刊 「小田原市史全15巻」の第1巻「原始 古代 中世T」(参考資料/文献 /銘文)の抜粋です。(長いのでコピーをそのまま載せました) これを読んでいてビックリしたのは、五郎元服の烏帽子親が北条時政であ ったこと、時政は伊東祐親の婿であったこと、工藤祐経が京都勤めが長く いかに頼朝の信頼を受けていたかということ、そのことにより兄弟の祐経に対 する一層の憎しみ更にそれを許す頼朝への不信、十郎と虎御前の出会いが 祐経の情報を得るため宿々に出入りする内大磯宿の虎といわれた御前とラブ ロマンスの花を咲かせたこと、兄弟が仇討ち後頼朝の屋形近くにまで迫った こと、事件後頼朝の弟範頼が失脚、殺害されたことからの時政の謀略説など が書かれています。 特に私にとって大きな謎であった「十郎と虎御前の出会い」が分かったことは 大きな収穫でした。 |
左2基が俗称曾我兄弟の墓 右が俗称虎御前の墓。いずれも 五輪塔です。保存状態はすこぶる いいです。この墓だけは道路から 見えます。 建立は右端の御前の墓の銘によ れば1295年です。 仇討ちは1193年でしたからそれ から100年以上経って建てられた のでしょうか? 曽我神社の由緒にある行実僧正が 建てたという墓がこれなのでしょうが 時代があいません。 箱根町文化財課の方の話で「静岡県 の宝篋印塔」でも書いた「七湯のしおり 」の中で曾我兄弟の墓と書かれている とのことです。正しくは「地獄信仰の霊 地」での供養塔ではないかということで す。 それは銘に「地蔵講結縁衆」(地蔵講 を信仰する集団の意)と刻まれていて、 曾我兄弟の墓とは全く無関係のようで す。 |
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神奈川県箱根町 箱根神社から10分位の所で、精進ケ 池と芦ノ湯の間です。 2011,3,3撮影 |
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左が曾我兄弟の供養塔、 右が祐信と母満江御前の 供養塔。いずれも五輪塔 です。 本堂裏にあり、ここは曽我 城の大手門前の土塁跡だ そうです。 1930年建立の新しい供養 塔です。 |
由緒です。 この中で注目すべきは 仇討ち当日、雷雨の夜で 兄弟は傘を燃やして松明 代わりにして本懐を遂げた ようです。 今でも5月28日には「傘焼 き祭り」が行われています。 |
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上野増上寺の末寺、浄土 宗のお寺です。 一角に幼稚園が併設されて います。 右は兄弟の立像です。 |
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小田原市曽我谷津 JR御殿場線下曽我駅から 比較的近いです。 曽我丘陵の麓で裏はミカン 畑や梅林が広がっています。 2011,3,3撮影 |
相生の松碑 今は碑だけです。 大正2年建立 |
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尾崎一雄の父尾崎孤山人による碑 | |
明治まで松が残っていたという。 ここは大山道(丹沢の大山への参拝道)と鎌倉街道の交差する場所で、古代より阪東や奥羽に行く人が必ず通ったという。 芭蕉や蕪村も句を詠んでいる。 |
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忍石 二人の最後の別れの場所という。 以前は姥石と姫石が二石で一対であったが 1つは城前寺に移されたという。 |
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六本松から忍石への道 細い道で軽しか通れない。右斜面は梅林。 |
法蓮寺(日蓮宗)の墓地にあります。 自然石の粗末な墓です。 夫人は30才位で再婚し、1199年奇しくも兄弟の七回忌に 50才位で亡くなったそうです。 今でも家臣で伊豆から随行してきた武藤家、安池家の子孫が 供養を続けている。 |
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由緒です |
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現別所公民館 当時はここに溜池と夫人の大屋敷があったという。その大屋敷は 曽我氏の下屋敷らしい。 最後の別れに訪れた二人に、母の意向を無視し出家しなかった 五郎の勘当を許そうとはしなかった。 兄十郎は懇願しとうとう勘当は許され、小袖を与えられる。 謡曲の「感動的な部分」である。(謡曲「小袖曽我」) 三度の結婚をして5人の子を産んだ夫人は健気な母であったのだろう。 | |
ほぼ完です |