静岡県の宝篋印塔(抜粋)
県埋蔵物文化財の権威のK氏より紹介された宝篋印塔です。
10世紀中国より入った宝篋印塔は日本風にアレンジされ
上流階級を中心に全国に広がっていったと思われる。
特に1400年前後、1600年前後には2つのピークを迎えたようだ。
※宝篋印塔は聞き慣れない言葉であるが広辞苑では 
※それと墓地巡りをすると現在亡くなった方も
使う人が偶にいるようですが、これは対象外です。

2012,6,15

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梶原堂の宝篋印塔

宝篋印塔4基と供養塔の五輪塔1基。最上部1段が全て欠けている。
1360年建立
五輪塔の左から景時公、景季公、景高公の宝篋印塔。一番左は不明                  ・
左から2番目の景高公の宝篋印塔
上1段が欠けている

正面の建物が梶原堂、その左説明看板、その裏宝篋印塔、その左厨子
静岡市清水区鳥坂


元は矢崎山中腹にあった龍泉院といい、1260年梶原山に追いつ
められ自害した梶原景時を本尊に、8代目の孫梶原景慶によって
1360年に建てられた。
1822年寺は全焼しましたが、その後復元され、昭和37年矢崎山が
削られることになり現在地に移転した。厨子の中には景時、頼朝公の
2位牌と如意輪観音像と鎌倉時代の毘沙門天像が安置されている。
明治4年寺社検地で龍泉院は廃寺となった。
北街道の長崎ICへの交差点の50M
東に案内の石柱があり、100Mほど北
に行き、最初の路地を左折
周りは農村地帯でくねった農道が多く
分かりずらい







20111,1,12撮影

華陽院の宝篋印塔
けよういん

木が飾られていて宝篋印塔が隠れてしまった
殆ど無傷に感じた

市姫=一照院殿の宝篋印塔            
1610年建立
家康の第8夫人お勝が生んだ娘で1610年駿府城
で7歳で死す。お勝は太田道灌の曾孫


源応尼=華陽院殿の宝篋印塔
1610年建立
源応尼は家康の祖母で家康が8歳〜19歳まで今
川の人質として駿府に来てから唯一人の身内と
して家康の身の回りの世話をした。1560年桶狭
間の戦い中訃報の知らせを受け、戦い中なので
葬式には行けぬが墓所の傍らにこの三河黒松を
植えてくれとその死をえらくいたんだという。

本殿 宝篋印塔は本殿の向かって左奥
静岡市葵区鷹匠2−24−18



家康が1609年府中に隠居し、1610年
祖母のため盛大な50回忌の法要を行った。
家康の命によりこの一寺が建立され、玉桂
山華陽院府中寺と称した。
浄土宗の寺(家康自身も浄土宗の信徒との
説あり−司馬遼太郎「街道を行く」)
※この建物は新しく近年に建て替えられた
ものと思われる。

2011、1,12撮影
今は敷地内に日吉町保育園も併設。周りは
静岡のビジネスの中心街に近く建物が密集
している。

安養禅寺の宝篋印塔

左端は供養塔の五輪塔、その右に7基の宝篋印塔。保存状態はかなりよいと感じた。
最初場所が分からなかったが、3度程ぐるっと回って、墓地の一番左奥にあった。
宝篋印塔の所にも何の看板もないし、K氏からは土肥氏と関係があるのでは位の話し。寺と土肥氏に付いては今の
ところ資料を持ち合わせていないのでよくはわからない。

墓地は右奥です
静岡市駿河区小坂(おさか)

山門入口手前に樹冠が7M程の所で
折れた大きなカヤがありました。
山門右手には梵鐘があります。



2011、1,12撮影
150号小坂交差点を北に折れ、東名
をくぐってカーブした橋の所を左に進み
300M位です
寺に曲がる角には庚申塔があります。
この辺りは「小坂みかん」の産地でミカ
ン畑が広がっています。

K氏からは清水区興津清見寺の左奥に大きな宝篋印塔があるというので行ってみましたが、
500羅漢の手前に武田の水軍の向井氏の大きな五輪塔(墓)が2基ありましたが、他に宝篋
印塔は1つもありませんでした。氏の勘違いかもしれません。
他に2〜3カ所見たいところがありますが後日を楽しみに・・・。

お万の方の宝篋印塔
---------------→
左の写真が小さかった
ため撮り直しました。
正面ではなく左横から
撮りました
お万の方の宝篋印塔(供養塔) 高さ4.61M 最大幅3.66Mの巨大なもの
宝篋印塔は5段ですが、これは一番下の段の下に更に5段の礎石を積み上げ
ています。それを除けば高さと幅は数字とは違います。
1653年以降建立

お万の方は小田原北条家の家臣正木氏の娘で家康の側室となり
10男頼宣(紀州家の祖)、11男頼房(水戸家の祖)の生母。
1653年77歳で没す。法名養珠院殿
熱心な日蓮宗の信者であった。(身延山、七面山周辺に足跡、遺構あり)
静岡市葵区沓谷2丁目
三松=北街道と新北街道が交差するすぐ側

連永寺は1283年庵原郡松野村に建立されたが
1615年お万の方がここに移した。
家康が1616年に亡くなり3回忌がここで盛大に
行われたという。
他に勝海舟の母信子と佐久間象山の妻となった
妹じゅんの墓、陸軍墓地などがある。
※墓地の周りの樹林が伐採され以前より明るくな
った。

2008,3,30撮影
2011,1、13再撮影

県教育委員会に問い合わせた時出た女性が「静岡県の歴史散歩」という本を紹介してくれ、その後買い求め
お万の方の供養塔が宝篋印塔であることが読んでいる中で分かりました。最初見た当時は宝篋印塔には興味は
なくただ大きな供養塔だな位の感覚でした。
近くの書店にまだ在庫はあるようです。静岡県歴史研究会があって20名ほどの高校の先生が主体となって書かれ
ています。「秋葉講」や「身延道」なども詳しく書かれています。大変参考になる本と思いますのでお勧めします。
2006年刊、山川出版、1260円

仙年寺の宝篋印塔

葛山城主葛山氏一族の宝篋印塔と五輪塔が数えて16基あった。真ん中に鏡餅の様な供養塔の
五輪塔がある。高さはいずれも50p以下で低い。1389年と1392年銘の宝篋印塔があるという。
裾野市葛山491

葛山氏の菩提寺。
寺伝では782〜806年間に愛鷹山中に空海により開創され、南北
朝時代に現在地に移設。
裏山は葛山城址で葛山氏の山城、最後の当主は信玄の6男信貞
であり門扉に武田菱の家紋が刻まれている(養子か?)。
葛山氏は藤原鎌足の流れをくむ大森氏の一族で、3代にわたりここ
を支配し、駿河の今川氏とも親交があったという。
浄土宗のお寺

2011,1、19撮影
仙年寺は葛山城址の麓



定輪寺は市役所から南へ2つ目の信号
を右折、黄瀬川を渡る・

「静岡県の歴史散歩」p77記載

定輪寺(連歌師宗祇)の宝篋印塔
                   そうぎ

連歌師宗祇の宝篋印塔。
1508年建立。
寺の説明文では五輪の塔婆とかかれており、また「歴史散歩」の写真も宝篋印塔とは分かりずらかったが、
来てみると上から3段目が少し丸いが宝篋印塔のような気がする。
死後300年後墓前で300遠忌が開かれ、2000年には宗祇法師500祭が行われた。
私は見落としたが墓の隣に「なべて世の 風をおさめよ 神の春」の句碑がある。
宗祇の略歴は下記説明看板を参照下さい。
裾野市桃園154
市役所及び東名近く

寺伝によれば延暦年間782〜806年に空海によって開かれ
清和天皇第2皇子貞純親王が開祖。
曹洞宗のお寺。

地図は上記をご覧下さい。

2011,1、19撮影

お寺の説明看板

「静岡県の歴史散歩」p75記載

信光寺の宝篋印塔
しんこうじ

武田信光の宝篋印塔と、その右に小振りな宝篋印塔2基。
1248年建立(多分)。
武田信光は武田信玄より14代前で尼将軍北条政子より伊豆の国の守護職として伊豆に12年過ごし、また
安芸の国の守護職にも任じられたという。
流鏑馬の名手で四天王の一人とされ執権北条時頼に伝授、2代将軍頼家殺害を聞き出家し、「伊豆入道
光蓮」と名乗ったという。

本堂

西国33番観音霊場の観音様(江戸時代)
伊豆の国市寺家83−1

当寺は武田五郎信光光蓮を開祖とし、また信光の廟所でも
ある。

曹洞宗のお寺。

2011,1,19撮影


初代執権北条時政が1189年建立した願成就院跡
(国指定)から150mほど南にある。

「静岡県の歴史散歩」p55記載

鬼岩寺の宝篋印塔

左から2番目 矢部隼人佑の1381年の宝篋印塔 最上段は現代に欠けていたのを補修したという。
左から1番目 1394年の宝篋印塔
左から3番目 1373年鬼岩寺地蔵講に集まった人々によって建てられた五輪塔
右       1405年に建てられた五輪塔

矢部隼人佑(はやとのすけ)は今川の家臣で下之郷に「屋敷」をもうけた記録があるという。

無縁仏の標柱の前に9基の宝篋印塔、その周りに無数の供養塔としての五輪塔。
この様は見事というより他はない。

本堂全景
藤枝市藤枝3丁目

726年行基によって開かれたとされ
平安時代空海によって鬼を法力によっ
て裏山の岩に閉じこめたという伝説か
ら寺名がきている。
1388年室町幕府3代将軍義満が富
士遊覧の際宿舎とした。6代将軍義教
も泊まったそうである。
寺内には中世の石塔群が400基以上
あり、市の有形文化財に指定されてい
る。
1月28日には境内で大祈祷会「火わた
り」が行われるようで、青いシートが既に
引かれていた。
真言宗のお寺。

2011,1、25撮影
市外から来る場合藤枝バイパス
谷稲葉ICが便利であろう。
約10分である。

「静岡県の歴史散歩」p194記載

龍泉院の宝篋印塔

今川伊より守氏俊の室(奥方)=龍泉院殿の宝篋印塔

看板の様に今川義元の妹のようだ
墓地の最上段にあった
静岡市葵区瀬名1丁目

偶々寺のご夫人と立ち話ができ
この墓の主は寺の開創とのこと。
今川義元死後は支配した武田氏
の影響も受けたようだ。徳川時代
の話は聞けなかった。
臨済宗のお寺

2011,1,26撮影
光鏡院(曹洞宗)の隣である。
墓地もほぼ隣り合わせになっ
ていて境界が分かりにくい。
いずれのお寺にしても今川氏、
瀬名氏と関係が深い。

家が近くなので散歩がてら今川氏と縁の深い2寺を見たら偶々発見した。
光鏡院には宝篋印塔はなかった。

慶寿寺の宝篋印塔

今川範氏の宝篋印塔(左)ともう1基、そして16基jの五輪塔。今川氏一族のものと
思われる。
1365年建立。宝篋印塔は丸い石は普通ないが、ここのは上から3段目が丸い。
変形宝篋印塔といわれるものだ、
階段を登りきった左にある。
島田市大草


今川範氏はこの付近の南朝の拠点であった大津城を落とし、
ここに慶寿寺を建てた。
京都泉涌寺から南江和尚を招いて建立したといわれている。
駿河守護職に任じられるまで、館もここに構えたという。
真言宗のお寺。

2011,2,1撮影


入口に島田市大津工業団地の
造成地があります。

「静岡見て歩き」の駿河と今川氏の宝篋印塔の写真を見て来ました。

髪の塚の虎御前の宝篋印塔

真ん中、虎御前の宝篋印塔と言われるもの。赤い頭巾が被されていたが取ってみると確かに宝篋印塔でした。
左右観音座像と思われる。
虎御前は富士の巻狩りの時工藤祐経を討った曾我十郎祐成の愛人であった。
曾我兄弟と虎御前」のページを作成しました。興味ある方はご覧下さい。
島田市野田
      
          うだじ
髪の塚は鵜田寺の向かえ角に
あり、虎御前は島田髪の考案者
といわれ、毎年9月第3日曜日に、
ここで島田髷祭りが行われる。
入口に「島田髷」(しまだまげ)の
説明看板あり。

島田市民病院は隣である。


2011,2,1撮影
地図は上記を参照下さい。


「静岡県の歴史散歩」P203記載

霊山寺の宝篋印塔
りょうぜんじ

宝篋印塔が4基あるが、内3基が変形
宝篋印塔といって、上から1,3段目
が丸く五輪塔との混合形である
(左記説明文)。
1314年と1304年の銘がある。
墓地を入って奥の方にある。
沼津市本郷町37

奈良時代の創建といわれるが詳しい
ことは分からないらしい。
山門入口に大きなイチョウがある。
庭は綺麗に手入れされていて、本堂
左手前の梵鐘は1364年の銘で、磐
田市の蓮光寺に奉納されたものであ
る。
本堂裏には沢山の観音様が安置さ
れていた。
後ろの山は香貫山である。
曹洞宗のお寺。


2011,2、9撮影
香貫山の麓、市役所からも近い。

「静岡県の歴史散歩」P93記載

清浄寺の変形宝篋印塔
勝間田城主勝間田氏一族の宝篋印塔と
言われている。宝篋印塔が7基、後ろに
小さな五輪塔の供養塔が10基ほどある。
墓所は斜面にある墓地の一番上に立つ。

勝間田氏は南朝方で、1476年北朝方の
今川義忠とのここ道場原の戦いで敗れ、
この山の山中に葬られたようであるが、
明治以前山中に点在していた墓をここに
集めたようである。

牧ノ原市道場(どうじょう)

清浄寺は勝間田氏が1291年
建立した、この地では珍しい
時宗のお寺である。

また勝間田氏は信仰心が篤く
1455年には富士山空港の西
にある曹洞宗の石雲院の開山
でもある。

2011,2,17撮影
R150の信号からすぐである。

「静岡県の歴史散歩」P216記載

撰要寺の巨大宝篋印塔

左初代城主大須賀康高の宝篋印塔、右2代、5代城主の宝篋印塔。高さ約4mで、静岡市のお万の方の宝篋印塔より高い。
この巨大な宝篋印塔は初めて見たが(静岡県では最大だろう)、全国的にはどうだろうか?いずれにしても贅を尽くしている。

初代大須賀康高は家康の家臣で、東約5qの高天神城が武田に奪われそれを奪還するために家康は1578年横須賀城を築城、
袋井市浅名の馬伏塚城主の大須賀氏を城主とし、1581年に高天神城を落としている。横須賀城は藩主20代、明治初年まで280年
続いたそうである(国史跡)。
この右奥に数基並ぶ

ここの写真は本堂裏奥の12代本田利長(在位32年間)一族の、これもまた巨大な宝篋印塔や五輪塔が並ぶ。
また周りには家臣、重臣の五輪塔が多い。いずれも墓塔群として県史跡。
(※デジカメ電池切れでバカチョンカメラで撮しましたがボケテうまくは撮れていませんでした)
掛川市山崎

天正9年大須賀康高の創建の
浄土宗のお寺。歴代城主の庇護を
受け、10万石の格式をもって、遠州
一の寺格であったという。

※外部からの訪問者を嫌うようなので
注意が必要である。

2011,2,17撮影
横須賀城のすぐ西である。

「静岡県の歴史散歩」P240記載。但し宝篋印塔の記載はなく、宝篋印塔があることは県埋蔵文化財のK氏にお聞きしました。

最誓寺の宝篋印塔

伊東家一族の供養塔、大きな五輪塔の前に小さな宝篋印塔があった。
密通の子千鶴丸は松川上流稚児が淵に沈められた。この宝篋印塔はその千鶴丸の
墓ないし供養塔かもしれない。

場所は山門をくぐって左です。
伊東市竹の内1

850年前頼朝と祐親の娘八重姫
の引き裂かれた愛が起源となり、八
重姫が千鶴丸の供養の為この寺を
この音無の森の一角に立てたようだ。
西成寺と称したが、慶長元年禅宗に
改宗、最誓寺と改めた。

曹洞宗のお寺。

2011,2,2撮影



「静岡県の歴史散歩」P14記載。但し宝篋印塔の記載はない。

東林寺の宝篋印塔

写真は全部載せなかったが、真ん中に河津三郎の墓、左に十郎の供養塔、右がこの写真の
五郎の供養塔の五輪塔である。
その右1m程離れて誰のものか分からないが宝篋印塔が1基立っていた。

この場所に行くには梵鐘の手前の観音様が3体あるところを5分ほど階段を登り切ったところである。
伊東市馬場町2

12世紀中頃真言宗久遠寺として開創。
伊東祐親が我が子河津三郎の菩提を
弔うため仏門に入り東林院殿寂心入道
と称したことで東林寺と改める。
1538年曹洞宗に改宗。
江戸時代衰え江戸末期廃寺となり、伊東
家の墓は上記最誓寺に移された。
但し今はこのように再建されている。

祐親や河津三郎の位牌、祐親や千鶴丸
の木像が本堂内にある。

2011,2,24撮影

「静岡県の歴史散歩」P13記載。但し宝篋印塔の記載はない。

萬松院の宝篋印塔

土塀に囲まれて宝篋印塔2基、五輪塔1基
由緒によれば、真ん中岡部信綱の墓、右出羽守の墓、左正綱の墓と思われる。正確には分からないが1550〜1600年頃順次建立か?
岡部の地名はここから来ていると思われる。
正綱はそれぞれ対立する今川、武田、家康の3氏に仕え、見方によっては無節操とも言えるが、戦国の時代には敵将といえども
武勇にとめば家臣にしたいということもあり、正綱はそのような人であったようだ。
藤枝市子持坂(旧岡部町)

岡部氏の菩提寺で曹洞宗の寺。
由緒はよくは分からない。天明などの古い墓石も散見された。

写真には撮らなかったが、寺から西に見える仮宿(かりやど)の
朝日山城は岡部氏の居城といわれているそうだ。
下からは見えないが寺はミカ
ン山の中腹にあり、車では常
願寺の方から大回りをする必
要がある。



2011,5,24撮影

「静岡県の歴史散歩」P184記載。記事を見落としていましたので今回訪れました。

身替わり地蔵の宝篋印塔

よく見ないと分からないが、五輪塔に混じって宝篋印塔が3基ある。
一番左とその右奥、もう1つは一番右の五輪塔の上にすっぽり乗っている。
それは上から2段目の”笠”という部分の”隅飾”がはっきりと見られるからだ。

この身替わり地蔵の場所は不思議な場所※であるが(墓地であろうか又は箱根越えの安全を祈った供養の場所であろうか)、
時代は平安・鎌倉時代を挟んでかなり古い場所と思われる。
地震や風雪で倒れたりした後、宝篋印塔の知識のない者が五輪塔と混ぜて立て直したのかもしれない。

※箱根町文化財課の方の話では、この場所は江戸時代に新しく東海道ができて通らなくなった元の鎌倉街道の周りにあった
石仏群をここに移したものだそうです。道路の反対側にも”賽の河原”という一角があるそうです。(2011,」3,4記)

赤い垂れをしているのが”身替わり地蔵”と思われる。
神奈川県箱根町元箱根

成川美術館入口の道路脇にあります。





2011,2,24撮影

「曾我兄弟と虎御前」関連で来て、
偶然見付けました。
静岡県ではありませんが、近いので載せることに
しました。

精進ケ池の宝篋印塔
しょうじんがいけ

左は俗称多田満仲の墓といわれる宝篋印塔。高さ2.5Mほどで、しかも横にがっしりとした宝篋印塔である。
多田満仲は900年初めから中頃の清和源氏の流れをくむ兵庫の人である。箱根町文化財課の話によれば、これは銘によれば1300
年建立で、年代からして多田氏のものでないことが分かる。地元に多田氏の関係は一切ないようだ。では何故多田氏のものといわれ
るようになったのだろうか?それは文化財課の話によれば江戸時代の「七湯のしおり」という絵入りガイドブックの中の芦ノ湯の近くの石
仏や多田氏の墓と書かれているそうである。

右は俗称八百比丘尼の墓といわれるもので、同じく「七湯のしおり」の紹介から来ている。両者の距離は100Mも離れてはいない。
銘によれば1350年建立である。高さは1M位で、上部が欠けている。八百比丘尼がこの地を訪れたという記録はないようである。
私は宝篋印塔ではないと思ったが、文化財課の話では下2段が宝篋印塔の形で、これも「七湯のしおり」の絵に近い形に復元をした
そうである。八百比丘尼のことは詳しくは知らないが北陸地方にいい伝えが多いようである。比丘尼とは※、尼僧ないし広い意味では
芸人と考えられる人達である。

文化財課の話ではこの精進ケ池の辺りは山の窪みで今でこそ木も生えているが昔は木もなく「地獄谷」のような場所で「地獄信仰の霊
地」であったらしい。そのため供養としてこの宝篋印塔や五輪塔、石仏群が置かれ、また六道地蔵のような摩崖仏が彫られたようである。
また背後は二子山でこの山には墓石になる安山岩が多いそうです。
※びく‐に【比丘尼】
(梵語 bhiku  び芻尼とも音写)
@出家して具足戒を受けた女子。尼僧。あま。徒然草「―より優婆塞(ウバソク)は劣り」 ←→比丘。
A鎌倉・室町時代以降、尼の姿をして諸方を遊行した一種の芸人。熊野比丘尼・歌比丘尼など。
次第に定住し、江戸時代には尼の姿で売色した私娼(シシヨウ)をもいう。一代女三「大坂川口の浮れ―」(広辞苑より)

精進ケ池と駒ヶ岳
墓は湖岸右の小径に沿って立っている(道路からは見えない)
六道地蔵
R1の反対側にある。
文化財課の話では1296年の
建立であるという。高さは2.5M
ほどです。・
建物の前には下記石造群が
安置されている。

応長地蔵(1311〜1312年頃)



神奈川県箱根町
静岡県ではありませんが、近いので載せました。
今回は「曾我兄弟と虎御前」関係で来ました。
箱根神社から10分くらいの所です。

前々日の雪に続きこの日も富士山・箱根方面は
小雪でしたがチェーンを巻くほどではありません
でした。

2011,3,3撮影

曽我祐信(伝)の宝篋印塔

地元では「祐信さんの供養塔」といわれているそうだ。高さ2.2M、関東では大きい方という。小田原市指定文化財。
曽我祐信は曽我城主で、河津三郎暗殺後曽我兄弟の母満江御前は兄弟を連れ再婚した。仇討ちの翌年には夫人と共に
出家したそうだ。
供養塔は城前寺から曽我丘陵(山彦山)に向け15分ほど車で上ったところに、ポツンと立っている。

ミカン畑と梅林
見晴台よりの下曽我平野。
酒匂川流域に町(小田原市)
が拓け、その向こうに箱根が
見える。天気がよければ富
士山も見えただろう。又左に
相模湾も見える。

曽我丘陵は静岡でいえば標
高、山容とも「日本平」といっ
た感の山である。
見たより起伏はあり、ミカン畑
とその間に名物の梅林が何カ
所もある。静岡でいえば梅の
替わりに茶畑であるが。
私の住んでいる静岡市瀬名の
「梶原山」ともよく似ている。
その山の中に細い農道が張り
巡らされている。

宝篋印塔への道はハイキング
コースにもなっていて起点の道
標を見落とさなければ(私は最
初見落としとんでもないところに
行ってしまった)要所に道標は
沢山付いている。
何組ものハイカーにも会いました。
小田原市下曽我
曽我丘陵

「曾我兄弟と虎御前」
関連でやって来ました。

往きはR1から小田原経
由、帰りはR72で松田に
抜けR246で帰りました
が松田にも結構近い所
でした。

静岡でありませんが比
較的近いので載せまし
た。


2011,3,3撮影

田島五輪塔の宝篋印塔

小田原市からいただいた「国府津・曽我丘陵ウォーキングコースマップ」
に載っていましたので来ました。
30p位の五輪塔多数と宝篋印塔の”笠”の部分を3つ見付けました。

入口に小さな看板があり、小径を少し上るとあります。隣はミカン畑でフェ
ンスで区切られた横です。
マップでは奈良時代の寺院の礎石があるとのことですが、私は見落としま
した。知らなければ”こんな所に何故”というような場所です。



以上2011,3,3撮影

子安地蔵の宝篋印塔

六地蔵の右が宝篋印塔、左は五輪塔の上3段(空輪、風輪、火輪)か?
多分墓ではなく供養塔と思われる。状態はよく相輪の部分に針金で補強してある。関東型である

1/14則沢のハイキングの帰りバイクで側を通ると石段の上に石造物が見えた。何だろうと思い石段を登ると六地蔵の横にこの
宝篋印塔が建っていた。”こんな所に宝篋印塔が?”とその偶然に驚いた。微かに銘もあったが読めなかった。

その日はカメラを持っていなかったので改めてやってきた。由緒がないので近くに誰かいないかと見回すと沢の反対側の公民館で
作業をしていた70才くらいの男性がいたので尋ねることにした。この場所は子安地蔵といい、自分が生まれるずっと前からあったそうだ。
建物はもとこの場所に小さなものがあったが古くなったので一段下に新築移転したという。これ以上の詳しいことは分からないそうだ。
私見では江戸時代初期当たりこの場所の地蔵堂と地蔵様を守る供養塔として建てられたのではないだろうか。
それにしても格式の高い宝篋印塔が山間の小さな地蔵堂に建てられたのは”謎”といえる。この”謎”を解く方はいないだろうか?

その後これは全くのフィクションですが、「家康」と関連ずけて考えてみました。
と申しますのは、このページの最初にも載せました様に「華陽院の宝篋印塔」「お万の方の宝篋印塔」にもあるように静岡市には「家康関連の宝篋印塔」があります。
また瀬名五丁目の山崎さん方のヤマモモを見学の際隠居した家康がよく瀬名辺りに鷹狩りに来たと言っていました。とすると、そこから3qほど奥の平山や則沢にも
来た可能性があります。その時村の衆が家康を接待しその御礼に六地蔵と宝篋印塔を寄贈したという様なことがあった可能性は否定できないでしょう。
と考えてみましたが皆様はいかが考えますか?(この5行 2012、1,20記)

この写真は天正10年家康が武田勝頼攻めの際山梨県右左口町(うばぐちちょう、現甲府市)に滞在した御殿場跡前にある六地蔵です。
宝篋印塔はありませんが同じような六地蔵が建っています。(2009撮影)

もう一つ考えられるのは、則沢奥の道白平にこもって修行した道白禅師との関連である。
今日地元の人から教えられ道白堂の上の禅師が修行した洞窟(奥宮okumiya) に行ってみると10個ほどの五輪塔が建っていた。禅師は武田が駿河に進出した
今から450年ほど前の人であるが、修行が終わって山を下りる時などに寄贈したとも考えられない訳ではない。
それとこれは1週間ほど前則沢の墓地に墓参りに来た男性に聞いた話では(この人は今ある子安地蔵の土地を寄付したそうだ)、埼玉県秩父郡皆野町にある
二十三夜寺(医王寺)と関係がある様だといっていた。この地蔵の祭事が8月23日であるという。詳しいことは分からないそうだ。(私見であるがこの話は後から
付けた話の様に感じてならない(この6行、2012,2,13記、撮影)
この五輪塔は当時のものか以後のものかは不明。もっとあったというが盗まれてしまったらしい。
地蔵堂です。左の松の生えている所に宝篋印塔が立つ
 
大正11年の「堂坂」記念                   一番左の庚申塔は昭和55年の銘で新しい。老人の話によると道路の拡幅の際ここに移されたそうだ
 
静岡市葵区則沢


















2012,1,15撮影