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木が飾られていて宝篋印塔が隠れてしまった 殆ど無傷に感じた
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左端は供養塔の五輪塔、その右に7基の宝篋印塔。保存状態はかなりよいと感じた。 最初場所が分からなかったが、3度程ぐるっと回って、墓地の一番左奥にあった。 宝篋印塔の所にも何の看板もないし、K氏からは土肥氏と関係があるのでは位の話し。寺と土肥氏に付いては今の ところ資料を持ち合わせていないのでよくはわからない。 |
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宝篋印塔は5段ですが、これは一番下の段の下に更に5段の礎石を積み上げ ています。それを除けば高さと幅は数字とは違います。 1653年以降建立 お万の方は小田原北条家の家臣正木氏の娘で家康の側室となり 10男頼宣(紀州家の祖)、11男頼房(水戸家の祖)の生母。 1653年77歳で没す。法名養珠院殿 熱心な日蓮宗の信者であった。(身延山、七面山周辺に足跡、遺構あり) |
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葛山城主葛山氏一族の宝篋印塔と五輪塔が数えて16基あった。真ん中に鏡餅の様な供養塔の 五輪塔がある。高さはいずれも50p以下で低い。1389年と1392年銘の宝篋印塔があるという。 |
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連歌師宗祇の宝篋印塔。 1508年建立。 寺の説明文では五輪の塔婆とかかれており、また「歴史散歩」の写真も宝篋印塔とは分かりずらかったが、 来てみると上から3段目が少し丸いが宝篋印塔のような気がする。 死後300年後墓前で300遠忌が開かれ、2000年には宗祇法師500祭が行われた。 私は見落としたが墓の隣に「なべて世の 風をおさめよ 神の春」の句碑がある。 宗祇の略歴は下記説明看板を参照下さい。 |
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お寺の説明看板 |
武田信光の宝篋印塔と、その右に小振りな宝篋印塔2基。 1248年建立(多分)。 武田信光は武田信玄より14代前で尼将軍北条政子より伊豆の国の守護職として伊豆に12年過ごし、また 安芸の国の守護職にも任じられたという。 流鏑馬の名手で四天王の一人とされ執権北条時頼に伝授、2代将軍頼家殺害を聞き出家し、「伊豆入道 光蓮」と名乗ったという。 |
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左から2番目 矢部隼人佑の1381年の宝篋印塔 最上段は現代に欠けていたのを補修したという。 左から1番目 1394年の宝篋印塔 左から3番目 1373年鬼岩寺地蔵講に集まった人々によって建てられた五輪塔 右 1405年に建てられた五輪塔 矢部隼人佑(はやとのすけ)は今川の家臣で下之郷に「屋敷」をもうけた記録があるという。 |
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今川伊より守氏俊の室(奥方)=龍泉院殿の宝篋印塔 看板の様に今川義元の妹のようだ 墓地の最上段にあった |
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今川範氏の宝篋印塔(左)ともう1基、そして16基jの五輪塔。今川氏一族のものと 思われる。 1365年建立。宝篋印塔は丸い石は普通ないが、ここのは上から3段目が丸い。 変形宝篋印塔といわれるものだ、 階段を登りきった左にある。 |
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真ん中、虎御前の宝篋印塔と言われるもの。赤い頭巾が被されていたが取ってみると確かに宝篋印塔でした。 左右観音座像と思われる。 虎御前は富士の巻狩りの時工藤祐経を討った曾我十郎祐成の愛人であった。 「曾我兄弟と虎御前」のページを作成しました。興味ある方はご覧下さい。 |
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左初代城主大須賀康高の宝篋印塔、右2代、5代城主の宝篋印塔。高さ約4mで、静岡市のお万の方の宝篋印塔より高い。 この巨大な宝篋印塔は初めて見たが(静岡県では最大だろう)、全国的にはどうだろうか?いずれにしても贅を尽くしている。 初代大須賀康高は家康の家臣で、東約5qの高天神城が武田に奪われそれを奪還するために家康は1578年横須賀城を築城、 袋井市浅名の馬伏塚城主の大須賀氏を城主とし、1581年に高天神城を落としている。横須賀城は藩主20代、明治初年まで280年 続いたそうである(国史跡)。 |
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この右奥に数基並ぶ ここの写真は本堂裏奥の12代本田利長(在位32年間)一族の、これもまた巨大な宝篋印塔や五輪塔が並ぶ。 また周りには家臣、重臣の五輪塔が多い。いずれも墓塔群として県史跡。 (※デジカメ電池切れでバカチョンカメラで撮しましたがボケテうまくは撮れていませんでした) |
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伊東家一族の供養塔、大きな五輪塔の前に小さな宝篋印塔があった。 密通の子千鶴丸は松川上流稚児が淵に沈められた。この宝篋印塔はその千鶴丸の 墓ないし供養塔かもしれない。 場所は山門をくぐって左です。 |
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写真は全部載せなかったが、真ん中に河津三郎の墓、左に十郎の供養塔、右がこの写真の 五郎の供養塔の五輪塔である。 その右1m程離れて誰のものか分からないが宝篋印塔が1基立っていた。 この場所に行くには梵鐘の手前の観音様が3体あるところを5分ほど階段を登り切ったところである。 |
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土塀に囲まれて宝篋印塔2基、五輪塔1基 由緒によれば、真ん中岡部信綱の墓、右出羽守の墓、左正綱の墓と思われる。正確には分からないが1550〜1600年頃順次建立か? 岡部の地名はここから来ていると思われる。 正綱はそれぞれ対立する今川、武田、家康の3氏に仕え、見方によっては無節操とも言えるが、戦国の時代には敵将といえども 武勇にとめば家臣にしたいということもあり、正綱はそのような人であったようだ。 |
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よく見ないと分からないが、五輪塔に混じって宝篋印塔が3基ある。 一番左とその右奥、もう1つは一番右の五輪塔の上にすっぽり乗っている。 それは上から2段目の”笠”という部分の”隅飾”がはっきりと見られるからだ。 この身替わり地蔵の場所は不思議な場所※であるが(墓地であろうか又は箱根越えの安全を祈った供養の場所であろうか)、 時代は平安・鎌倉時代を挟んでかなり古い場所と思われる。 地震や風雪で倒れたりした後、宝篋印塔の知識のない者が五輪塔と混ぜて立て直したのかもしれない。 ※箱根町文化財課の方の話では、この場所は江戸時代に新しく東海道ができて通らなくなった元の鎌倉街道の周りにあった 石仏群をここに移したものだそうです。道路の反対側にも”賽の河原”という一角があるそうです。(2011,」3,4記) |
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赤い垂れをしているのが”身替わり地蔵”と思われる。 |
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左は俗称多田満仲の墓といわれる宝篋印塔。高さ2.5Mほどで、しかも横にがっしりとした宝篋印塔である。 多田満仲は900年初めから中頃の清和源氏の流れをくむ兵庫の人である。箱根町文化財課の話によれば、これは銘によれば1300 年建立で、年代からして多田氏のものでないことが分かる。地元に多田氏の関係は一切ないようだ。では何故多田氏のものといわれ るようになったのだろうか?それは文化財課の話によれば江戸時代の「七湯のしおり」という絵入りガイドブックの中の芦ノ湯の近くの石 仏や多田氏の墓と書かれているそうである。 右は俗称八百比丘尼の墓といわれるもので、同じく「七湯のしおり」の紹介から来ている。両者の距離は100Mも離れてはいない。 銘によれば1350年建立である。高さは1M位で、上部が欠けている。八百比丘尼がこの地を訪れたという記録はないようである。 私は宝篋印塔ではないと思ったが、文化財課の話では下2段が宝篋印塔の形で、これも「七湯のしおり」の絵に近い形に復元をした そうである。八百比丘尼のことは詳しくは知らないが北陸地方にいい伝えが多いようである。比丘尼とは※、尼僧ないし広い意味では 芸人と考えられる人達である。 文化財課の話ではこの精進ケ池の辺りは山の窪みで今でこそ木も生えているが昔は木もなく「地獄谷」のような場所で「地獄信仰の霊 地」であったらしい。そのため供養としてこの宝篋印塔や五輪塔、石仏群が置かれ、また六道地蔵のような摩崖仏が彫られたようである。 また背後は二子山でこの山には墓石になる安山岩が多いそうです。 ※びく‐に【比丘尼】 (梵語 bhiku び芻尼とも音写) @出家して具足戒を受けた女子。尼僧。あま。徒然草「―より優婆塞(ウバソク)は劣り」 ←→比丘。 A鎌倉・室町時代以降、尼の姿をして諸方を遊行した一種の芸人。熊野比丘尼・歌比丘尼など。 次第に定住し、江戸時代には尼の姿で売色した私娼(シシヨウ)をもいう。一代女三「大坂川口の浮れ―」(広辞苑より) |
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精進ケ池と駒ヶ岳 墓は湖岸右の小径に沿って立っている(道路からは見えない) |
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地元では「祐信さんの供養塔」といわれているそうだ。高さ2.2M、関東では大きい方という。小田原市指定文化財。 曽我祐信は曽我城主で、河津三郎暗殺後曽我兄弟の母満江御前は兄弟を連れ再婚した。仇討ちの翌年には夫人と共に 出家したそうだ。 供養塔は城前寺から曽我丘陵(山彦山)に向け15分ほど車で上ったところに、ポツンと立っている。 |
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小田原市からいただいた「国府津・曽我丘陵ウォーキングコースマップ」 に載っていましたので来ました。 30p位の五輪塔多数と宝篋印塔の”笠”の部分を3つ見付けました。 入口に小さな看板があり、小径を少し上るとあります。隣はミカン畑でフェ ンスで区切られた横です。 マップでは奈良時代の寺院の礎石があるとのことですが、私は見落としま した。知らなければ”こんな所に何故”というような場所です。 |
六地蔵の右が宝篋印塔、左は五輪塔の上3段(空輪、風輪、火輪)か? 多分墓ではなく供養塔と思われる。状態はよく相輪の部分に針金で補強してある。関東型である 1/14則沢のハイキングの帰りバイクで側を通ると石段の上に石造物が見えた。何だろうと思い石段を登ると六地蔵の横にこの 宝篋印塔が建っていた。”こんな所に宝篋印塔が?”とその偶然に驚いた。微かに銘もあったが読めなかった。 その日はカメラを持っていなかったので改めてやってきた。由緒がないので近くに誰かいないかと見回すと沢の反対側の公民館で 作業をしていた70才くらいの男性がいたので尋ねることにした。この場所は子安地蔵といい、自分が生まれるずっと前からあったそうだ。 建物はもとこの場所に小さなものがあったが古くなったので一段下に新築移転したという。これ以上の詳しいことは分からないそうだ。 私見では江戸時代初期当たりこの場所の地蔵堂と地蔵様を守る供養塔として建てられたのではないだろうか。 それにしても格式の高い宝篋印塔が山間の小さな地蔵堂に建てられたのは”謎”といえる。この”謎”を解く方はいないだろうか? その後これは全くのフィクションですが、「家康」と関連ずけて考えてみました。 と申しますのは、このページの最初にも載せました様に「華陽院の宝篋印塔」「お万の方の宝篋印塔」にもあるように静岡市には「家康関連の宝篋印塔」があります。 また瀬名五丁目の山崎さん方のヤマモモを見学の際隠居した家康がよく瀬名辺りに鷹狩りに来たと言っていました。とすると、そこから3qほど奥の平山や則沢にも 来た可能性があります。その時村の衆が家康を接待しその御礼に六地蔵と宝篋印塔を寄贈したという様なことがあった可能性は否定できないでしょう。 と考えてみましたが皆様はいかが考えますか?(この5行 2012、1,20記) この写真は天正10年家康が武田勝頼攻めの際山梨県右左口町(うばぐちちょう、現甲府市)に滞在した御殿場跡前にある六地蔵です。 宝篋印塔はありませんが同じような六地蔵が建っています。(2009撮影) もう一つ考えられるのは、則沢奥の道白平にこもって修行した道白禅師との関連である。 今日地元の人から教えられ道白堂の上の禅師が修行した洞窟(奥宮okumiya) に行ってみると10個ほどの五輪塔が建っていた。禅師は武田が駿河に進出した 今から450年ほど前の人であるが、修行が終わって山を下りる時などに寄贈したとも考えられない訳ではない。 それとこれは1週間ほど前則沢の墓地に墓参りに来た男性に聞いた話では(この人は今ある子安地蔵の土地を寄付したそうだ)、埼玉県秩父郡皆野町にある 二十三夜寺(医王寺)と関係がある様だといっていた。この地蔵の祭事が8月23日であるという。詳しいことは分からないそうだ。(私見であるがこの話は後から 付けた話の様に感じてならない(この6行、2012,2,13記、撮影) この五輪塔は当時のものか以後のものかは不明。もっとあったというが盗まれてしまったらしい。 |
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地蔵堂です。左の松の生えている所に宝篋印塔が立つ | ||
大正11年の「堂坂」記念 一番左の庚申塔は昭和55年の銘で新しい。老人の話によると道路の拡幅の際ここに移されたそうだ |
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