日影沢金山

11月12日梅ヶ島温泉からハ紘嶺登山口駐車場まで
歩いた帰り魚魚の里で食事をして近くを見回すと「日
影沢金山遊歩道」の案内図があった。
勿論「日影沢金山」は武田信玄がこの地を支配してい
た当時拓いた金山で安倍峠を越えその金を甲斐に運
んだくらいは知っているし、梅ヶ島温泉の旅館のホー
ムページにも坑道の写真が載っているのを見たことは
あるが、見たいという強い興味はなかった。がまだ一度
も静岡にいながら見たことはなかったので、偶々時間
が余っていたので急遽見ることにした。
遊歩道と書いてあったので楽勝と思って歩き始めたが
いやはやとんだ急坂の山道で、来る人も少ないようで
2時から4時頃の時間帯であったがやや曇りとはいえ
ほとんどが夕方5時位の暗いスギ林で、デジカメの撮
影をシーンのキャンドルという位置で撮らねばならなか
った。
山道は細く且つ暗く、落ち葉が積もり、折角のベンチ
は苔むして掃除もされてなく座る気にもならない。余り
歩かれた形跡が見られない。とんだ所に来てしまった
という後悔の念が湧き起こる。そういえば登る際上から
下りてきた年輩の男性にどこまで行きました?と聞い
たら吊橋の所まで行ったが暗く気持ち悪くなったので引
き返してきたと言った意味が分かってきた。これはこ
れから行く方があればのアドバイスですが絶対に一人
で行かない方がよいと思う。その位暗く薄気味悪い所
ではある。
こんなことを書くとお前は何故このホームページを立
ち上げたのか?遊歩道を造った静岡市の行政を批判
したいのか?と言われかねませんが、実は他の所に
あります。
思うにどんな経緯があって静岡市がこの遊歩道をい
つ頃造ったのか資料も見ていないし市のHPも見て
いないが、1億円は掛けて造ったのではないかと想
像する。しかるに現在の利用率から言えば年間何人
の人が来るのか?数えるほどではないかと想像する
がそうすれば数字から言えばえらい税金の無駄使い
と言うことになってしまう。(吊橋の完成年は平成1〜2
年だった)
ところがこれからは私の感想と私見ですが、坑道を
見て、吊橋を渡って反対側のこれまた真っ暗な急な
山道を登り下りてくると「人夫の墓」と言う場所に出ま

す。そこには確かに山道の周りに朽ち果てた石の墓
が点在します。その説明文を見てビックリし頭の中が
ジーンとしてしまいました。そこには「佐渡の金山では
25才になると還暦の祝いをした」それくらい金山の
労働は過酷であったと書いてありました。よく数えれば
100位墓はあったのかもしれません。400年ほど前病
気や事故で亡くなっていった人のものでしょう。お墓
があるのはまだマシなのかもしれませんが・・・。まだこ
れからという年で死んでいかなければならない、そん
な人生があってよいものか?
金と言えばその輝きや価値に誰しも魅了されてしまい
ます。「鬼平犯科帳」などで盗賊や悪代官が千両箱を
盗み出すシーンや大判をチャラーンと落とすシーンや
「ニターッ」と笑うシーンなどを見て笑ったものですが、
実はその金の大判や小判がこういう「命と引き替えの
過酷な労働であった」ことを物言わぬ無縁仏が教えて
くれました。
私が言いたいのはこのことです。「女工哀史」の比で
はないでしょう。戦国大名はこうして得た金を湯水のご
とく戦争に使ったのでしょう。
願わくばもう少し掃除をしたり手入れをして(単なる史跡
ではなく温泉の観光資源ということなら尚更だ)、特に山
道の周りの土地が官地であるならば是非間伐をしたら
どうかと考えます。そのことによって雰囲気が随分明る
くなり薄気味悪さもなくなるのではないかと思います。
これは今日知ったことですが梅ヶ島温泉上の登山道の
静岡市の市有林のヒノキ林は50年くらい経つようです
が、「間伐展示林」として間伐率20%と表示されていま
した。10本に2本の割合ですね。たったこれだけの間
伐で明るい素晴らしい美林になっていました。この場所
も間伐展示林にならないものか?
修学旅行とは言わないまでも郷土の歴史や先人の苦
労を学ぶ野外活動の場として子供にも見て欲しいと強
く感じました。「最後の所」に来て何しろ「人生を考えさ
せる遊歩道」でした。1億円掛けた価値はあるし段々分
かると思いました。市の立案者もそんな願いを込めてこ
の遊歩道を造ったのではないかと思えてくるのです。「
坑道」もよいですが「人夫の墓」も絶対にはずさない様
計画を組んで歩いてください。

2011,11,13記


案内図に分かりやすい様加筆しました

魚魚の里に渡る橋のたもとから見た「日影沢金山遊歩道」の想像概念図


                      
では順路を追ってご案内します
 
この標識のある橋を渡ります           すぐ東屋のある小さな公園の横を通ります
 
魚魚の里の建物です                                       遊歩道の大まかなルート
 
車はその奥に止めます 遊歩道入口の道標に添って進みます            直ぐチェーンの掛かった林道を抜けます。左に堰堤が見えます
                                                  このクサリから50m先の「遊歩道入口」の道標から暗い急な山道に入ります
 
この道標から遊歩道に入ります                         階段の付いた暗いスギ林の遊歩道を進みます
           坑道や八幡神社に行くには遊歩道に入らず沢沿いの広い道を
           進んだ方が楽ですが、何故かその案内はありません
 
日影沢東の尾根は狭く「人夫の墓」に選ばれなかった理由が分かります                  八幡神社跡までは何の史跡はありません、唯の山道です   ・
 
            間伐されている所は少し明るいです                 1カ所だけ沢で道が崩れている所を迂回します
 
その注意看板です                                    八幡神社の所の説明看板です
 
八幡神社跡の舞台の建物と手前の1692年の庚申塔です                                   近くの”苔むした”ベンチ
この建物の周りに住居跡があるようですが初回は見落としました。                                              ・
新田の人の話ではこの舞台は市の協力で造られ、以前新田の人が                                              
ここで神楽を舞ったと話していました(11/20)                                                  
 
現地に看板はありませんが八幡神社の周りにある石垣に囲まれた平地は金堀衆住居跡と思われます。今はヤブや木が生えています
全くの想像ですが往時には200から300人くらいは住んでいたのでは・・・。

住居跡以外に作業場もあったのではないかと思われます。
特に千秋橋近くの日影沢支流の近くに。
作業は工程で分かれていて、岩石を掘り出す人、運んでくる人、
細かく割る人、磨りつぶす人、砂金の様に漉す人、溶かす人、
型にはめる人、検査する人など厳重な監視下の元行われた
のでしょう。
新田の人の話では作業場は坑道の手前ではなく奥の吊橋(紅葉橋)の
手前の沢付近ではないかと言っていました(11/20)

「すりいし」と読むのでしょうか?信玄の時代、
日影沢金山で金鉱石をこの石の窪みですり潰し
水に流して金を採ったものだそうです。
梅ヶ島温泉梅薫楼横に設置、観光用にここに移設
したと思われます。裏も窪んでいます。
  
梅ヶ島新田の稲荷神社です(左・鳥居、中・石段の道、右・拝殿と裏に神殿がある)
幕末無住となった日影沢の八幡神社からここにご神体が移されました。(1850年)
鳥居の横に創建150周年記念碑が建っています。
社殿まではスギの植林で薄暗い階段の道を約15分、標高差で100m位手すりを
掴まってのきつい登りでした。(場所は梅ヶ島新田バス停から大谷崩方向300m)
この3枚2011,11,20撮影
 
「坑道」へ行く手前の千秋橋です                           道標は親切に所々にあります
 
                                                                       坑口です
 
        金堀師安田氏が奉納した山神様                        この説明看板には面白いことが書いてある
      1693年奉納。高さ約70p                         山師、金堀師の仲間には「どこどこで金が採れた」と言う様な情報は全国直ぐ    
奇特な人がいるものだ。壊れた祠を見かねて寄贈したのだろう         伝わったのだろう。安倍奥のゴールドラッシュに全国から大勢の人が集まったらしい。    
採れた金の○○割を払えば採掘が認められたのかもしれない。安田氏は素晴らしい    
鉱脈に10年後ぶち当たった様だ。しかしギャンブルと同じで殆どの人ははずれたの     
だろう。広辞苑でぴったりした訳はないが意訳すると「御荷分稼行」は請負の親方      
としての仕事、「村請稼行」は村が請け負い共同して苦役する一人夫としての仕事と    
                                                    いうことにになろうか。                                         
 
 山神へはこの道標から200mほどあります              吊橋 紅葉橋です 鉄製で50m程あります
                                       この先は塔頭の尾根に続きます
                                                      橋の手前の沢沿いに平らな所があり作業場だったのかもしれません            
 
渡ると道は巻いています                      仏山へは急登です
  
                       「塔頭の尾根」です。仏山からは急な下りで、細いスギが密集し天気の悪い日はかなり暗いです                  
 
その先は少し平の所に出ます。その先が「人夫の墓」の場所です       墓が転がっています。墓地の周りは自然林です
                                                植林をして「史跡」が壊れるのは避けたかったのでしょう      

「塔頭」とは広辞苑では山寺とか末寺とかの意味があるが、もう一つは古い墓、墓地の意味もある様だ
「25才」と書かれていることに最初は信じられませんでした
武田が滅び江戸時代になってからも甲斐から人夫が来たのだろうか?

では何故この尾根が墓地に選ばれたのでしょう?全くの私見ですが、先ず河原近くは
安倍川の大水による氾濫で墓が流されてしまう可能性がある、この尾根は今はスギの
植林で暗いが当時は雑木林で景色もよく特に朝日と夕日が共によく当たったのではない
かと思われます。そんな理由でここが墓地に選ばれたのではと想像してみました。
 
墓石の残っている所−1
 
墓石の残っている所−2
 
墓石はなく礎石だけの所
   
保存状態のよい墓石−1
よく見れば刻みも読めます。時代も色々で天明、元久、元禄、天保、享保・・・・。
  
保存状態のよい墓石−2
 
特に保存状態のよい墓石
左・「元禄13 妙法塔  帰寂妙有?」     右・「宝暦2 空風火水地霜山便道」
 
奉行屋敷(復元)です                          対岸に「黄金の里」が見えます
 
日影沢は水は流れていません。河原を渡り戻ります                               戻った辺りです
2011,11,12撮影
遊歩道は昼間でもかなり暗く、ストロボをたかないで撮りましたらぼけているのがかなりありました。
2011,11,15及び20再撮影
かなりの写真を入れ替えました

6月の安倍峠
信玄が日影沢金山の金を甲斐に運んだという駿河と甲斐の国境の峠
この峠だけは450年前と余り変わってはいないでしょう